ニパ(Nipah)ウイルス感染症について(第一報)

小澤義博


J. Vet. Med. Sci.62巻12号2000年に掲載 

*国際獣疫事務局(OIE)アジア太平洋地域顧問
(〒107-0062東京都港区南青山1-1-1新青山ビル東館311号)

1.歴史的背景
 マレー半島北部,Perak州のイポー近郊には多くの中国系のマレーシア人が住 みついており,山に囲まれた地域で養豚業が次第に普及し,最近では国内だけで なく,シンガポールや香港にも豚が輸出されるような大きな産業にまで発展し た.
 しかし,1997年にはイポーの養豚農家に散発的に脳炎患者が出始め,そのうちの1人が死亡した.1998年末には脳炎患者は次第に増え始め,イポー近辺だけで 合計15人が死亡した.その患者のなかに日本脳炎に対する抗体を保有する者がい ることが分かったが,その他の原因は不明のままであった.
 1998年12月にはクアラルンプールの南約60kmにあるSikamatにまで同様な病気 が広がり,1999年1月には7人が脳炎症状を示し,そのうち5人が死亡した.その 後の患者数と豚の殺処分数は図1に示されている.
 1999年2月後半から3月にかけて患者数は急増し,それが豚の病気に関係するこ とや,そもそもの原因のほとんどはイポーの養豚農場から移動してきた豚にある ことも分かってきた.3月13日から20日までの1週間にシンガポールの,と畜場関 係者11人に同様の症状が見られ,その中の1人が死亡したが,その時の豚もイポ ー近郊から輸入されたものであった(図2).以上のことから本病は豚の新しい 病気と関係することが明らかになり,にわかにその病原体の分離と同定の活動が 始まった.
 1999年2月末にはマラヤ大学で脳炎患者からウイルスが分離され,3月にそれを アメリカのCDC(疾病予防センター)で同定した結果,オーストラリアのヘンド ラウイルスと交差反応を示すパラミクソウイルスの一種であることが判明した. このウイルスは一時は「ヘンドラ様ウイルス」と呼ばれていたが,ヘンドラウイ ルスとは分子配列がかなり違うことが分かったので,このウイルスの分離された 患者の出身地の名前をとって1999年の4月10日から「ニパウイルス」と呼ばれる ようになった.

2.ニパウイルスの性質
 1999年2月にマラヤ大学で患者の血液と髄液をVEROやBHK細胞に接種してウイル スの分離が試みられ,30人の患者のうち5人からシンシチウムを形成するウイル スが分離され,電子顕微鏡で多形態性の粒子(160〜300nm)が認められた.アメ リカのCDCで検査した結果,オーストラリアで分離されたヘンドラウイルスの抗 体と交差反応を示すことや,ヘンドラウイルスのヌクレオチツドの配列と 21-25%の違いがあること,N蛋白ではアミノ酸の配列は約11%異なっていること 等が分かった(1).そこで,一時は「ヘンドラ様ウイルス」と呼ばれていた が,二つのウイルスの間に明らかな差があるので「ニパウイルス」と名付け,区 別することになった.
 ニパウイルスも前述のヘンドラウイルスも,人のハシカや犬のジステンパーや ニューカッスルウイルス等と同じパラミクソウイルスの一つであるが,いずれも 人や多くの動物に感染を起すことや,フルーツコウモリ(Megachiroptera)が主 な保有宿主である可能性が高いことから,パラミクソウイルス科の新しい属とし て「メガミクソウイルス」と呼んではどうかという提案がオーストラリアから出 されている(2)(表1).オオコウモリの分布地域は図3に示されている.
 ニパウイルスは動物の体外では不安定で,比較的不活化されやすく,市販の消 毒薬や石鹸による洗浄が不活化に有効であると言われている.マレーシアでは TrotonやLysolが使われているが,その他の消毒薬としてBetadineやVircon等が アメリカのCDCにより勧められている.

3.ニパウイルスの診断方法
 マレーシアには人体に危険性のある微生物を扱うP-3レベル以上の隔離実験室 がなかったことや,海外病診断用の抗体や抗原を保有していなかったこともあ り,ウィルス分離後の検査は全てアメリカのCDCおよびオーストラリアのジーロ ングの隔離実験室で行われた.アメリカとオーストラリアで組織培養で増殖した ニッパウイルスをガンマー線で不活化した抗原がマレーシアに送られ,それぞれ 人間(マラヤ大学医学部)と動物(イポー国立獣医研究所)における抗体の調査 に使われてきている.最近ではウイルスに感染したVERO細胞をNP40で処理した抗 原がオーストラリアで作られ,イポーの研究所に送られている.
 ウイルスの分離は比較的容易でVERO,BHK-21,PS細胞等が用いられ,VEROや BHK-21細胞では接種後1〜2日でシンシチウムの形成が起り,明らかなCPE(多核 巨大細胞)が見られる.また,ニパウイルスは乳飲みマウスの脳内で増殖し,死 亡させる.
 抗体検査にはAntigen captured ELISAテスト方法が用いられている.採集され た血清はTween-20とTriton×100の希釈液を加えて不活化し,さらに56。Cで30分 間加熱した後に競合ELISA法によってIgMおよびIgG抗体の有無を検査する.IgG抗 体は感染後少なくとも1〜2年は持続するものと考えられている.中和抗体の測定 による試験が最も信頼性が高いが,競合ELISAの結果は中和試験の結果と97.5% の割合でよく一致していた(1999年).しかし,最近の抗原を使ったテストでは 両者間の結果が一致しない例が多くなってきている.また特定のプライマーを使 ったPCR法による診断結果もウイルス分離法の結果とよく一致することが分かっ てきている.しかし,PCR法には新鮮な血液(白血球)または組織が必要であ り,汚染による擬陽性反応に注意する必要がある.中和試験やPCR法による診断 にはウイルスに感染する危険性があるのでP-3以上の隔離施設が必要となる.一 般的には,ニパウイルスとヘンドラウイルスの中和抗体の交差反応を行うと約8 〜16倍の反応の差がみられる.最近になってImmuno-paraoxidase法は感染動物の 組織中のニパウイルス抗原の有無を調べる方法として注目されるようになってき た.しかし,このテストには急性感染期の組織が必要であるが,組織はホルマリ ン漬けにしたものが使えるので安全である.
4.人への感染と症状
 ニパウイルスが人に症状を示すには恐らくかなり高い濃度のウイルスの経口も しくは経鼻感染が必要となるものと思われる.傷口からの感染の可能性も疑われ ているが実証されていない.しかし,マスクとメガネを付け,カバーオールを着 ることにより感染を防ぐことが出来ると言われている.患者は20歳から50歳の養 豚業者や豚の輸送業者,と畜場や豚の市場に従事していた男性が約82%を占め, 18%が女性であった.しかし,養豚産業にまったく関係のない人も数人いた.豚 肉店で働いていた人が発症したという報告はあるが,一般に豚肉は1日おけば安 全であると言われており,豚肉を食べて感染した例は報告されていない.
 1999年7月初旬までの患者数の合計は265人で,そのうち105人が死亡したので 死亡率は約39%と言われている.100万頭以上の豚の殺処分に従事した兵士のう ち数人や一般市民にもニパウイルスに対する抗体を持つ者が多数いることが分か っている.その他にも,症状はほとんどなく抗体だけが陽性を示す不顕性感染を 起したと思われる者も養豚業者の中にはたくさんいることが分かっている.人の 咽頭分泌液や尿にはウイルスが含まれていることが分かっているが,人から人へ 感染した例は認められていない.マレー半島の豚のと畜場で直接と殺に関与した 435人のうち7人が抗体を持っていた.その他,動物の抗体調査に関与してきた人 達の中にも抗体を有した者のいることも判明している.マレーシアの640人の獣 医師のうち11人がニパウイルスの抗体を持っていたが,そのほとんどは,まだニ パウイルス病の発生が知られていなかった時期に,病気の豚に投薬や治療等のた め直接接した開業獣医師であった.しかし,発症した獣医師はいなかった.
 人における潜伏期間は10〜15日と言われており,臨床症状は発熱に始まり,眩 暈や眠気を感じ,頭痛を訴えるようになる.頭痛は約65%の患者が訴え,居眠り は約43%,悪寒が41%,急激な痛みが22%,首の硬直が12%,不安が11%,麻痺 が9%,その他嘔気や眩暈等の行動の変化,混乱状態や異常行動,記憶喪失等を 示し,昏睡状態に入ると3乃至30日で死亡した.
 死亡率は病院に来た患者265人中105人と言われているが,報告のなかった軽い 症状だけで治ってしまった人数を入れると死亡率はもっと低くなる.しかし,一 度症状が見られたが,治ったので帰宅した人達の間に脳炎の再発が起るか否かは 1〜2年間観察を続けないと分からない.(今日までのところ抗体が陽転してから 6ヶ月後に脳炎が発症した例がある.)患者の治療薬としてRibavinnが使用され た例も報告されているが,その効果のほどは分からない.

5.豚への感染と症状
 豚から豚への感染は接触による経口,経鼻感染の他に咳等で排出される微小水 滴を吸入しても起りうるものと考えられている.豚での潜伏期は7〜14日と報告 されている.症状は一様ではなく,努力性呼吸,爆発的な咳,震えや攻撃的行動 等の神経症状が多くの養豚業者によって報告されている.また時として流産や雌 豚の突然死も農家によって報告されているが,ニパウイルスによるものか否か不 明のものが多い.4週令以下の乳飲み子豚では約40%の死亡率が報告されている が,これらの死亡が子豚の病気によるものか,親豚の病気によるものか不明なも のが多い.
 4週令から6ヶ月令の豚では呼吸器障害が主な症状であるが,次のような症状を 伴うことがある.
a. 抑鬱,無気力,食欲不振を伴った発熱(39.9。C以上)
b. 腹式呼吸あるいは呼吸促迫
c. 痰を伴わない喘鳴性の咳
d. 神経症状(震え),脚の痛みによる後駆起立不全及び跛行
e.. 追われた時の不規則な歩調
f. 強直性痙攣もしくは間代性筋痙攣 死亡率は比較的低く1〜5%で,症状の強弱も一定でなくストレスの有無によって も変化するものと言われている.
 乳飲み子豚の死亡率は高く約40%と言われている.しかし,これは親豚の感染 によるためか否かはっきりしていない.乳飲み子豚の症状としては口を開いたま まの状態,筋肉の痙攣や強直による脚の異常と歩行不能等である.
 成熟豚では上記の子豚と似た呼吸症状の他に神経症状として
a. 興奮状態が見られ,頭を柵に押し付ける
b. 血液を含む鼻汁の流出
c. 筋肉の強直,痙攣
d. 眼振症
e. 歯ぎしり
f. 咽頭筋の痙攣により飲み込み不能
g. 泡状の流唾
h. 口から舌を出したままの状態
i. その他妊娠初期(最初の3ヶ月)の流産の可能性
等が報告されている.
 主な剖検所見としては,肺の表面は湿潤で,全体に肥大している.小葉間水腫 が見られ,時として点状もしくは斑点状出血が見られる.気管支や咽頭部に泡状 の液体もしくは血液がたまっていることが多い.脳は浮腫気味で血管の充血が見 られるが,その他の病変は見られない.ごく稀に表面に点状出血の見られたもの もあった.腎臓は多くの場合正常であった.組織病理学的には血管炎と多核巨大 細胞,細胞溶解と壊疽等が血管壁や肺や脳等に認められた.また,感染豚組織の 電子顕微鏡像では,肺の内皮および上皮細胞にニパウイルスの存在が認められ, 肺胞内や気管支内にウイルスが放出されることが分かっている(3).

6.ニパウイルスの疫学
 イポー地域で1994〜1996年に発生した豚病の組織標本をオーストラリアで検査 したところ,ニパウイルスの抗原を含む標本が最近見つかった.これは1994年頃 には既にニパウイルスがこの地域の豚に感染を起していた可能性を示している. しかし,ニパウイルスは感染した豚に顕著な症状や高い死亡率を示さなかったた め,気付かれずに見逃されてしまい,豚での感染が繰り返されていた可能性が高 い.今日までの調査で,ニパウイルス感染者第一号と考えられている人は1997年 1月に発症した脳炎患者で,イポー市東部に住んでいた養豚業者である.また, その地域一帯には数多くの果樹があり,たくさんのオオコウモリが生息してい る.1997年から1998年にかけて養豚農家で脳炎症状を示す者が散発的に発生し, 当時は日本脳炎(JE)の流行が疑われ,JEワクチンの接種が人のみならず豚にも 繰り返し行われた.豚の場合,1本の針で約20頭に接種を行ったので,注射針に よるウイルスの感染を拡大してしまった可能性は否定出来ない.また,獣医師に よる畜舎間の伝播の可能性も考えられる.この間ニパウイルスの豚への親和性が 高まり,ウイルス力価も上昇したものと考えられる.
 ニパウイルスの自然宿主の解明には,アメリカやオーストラリアからの専門家 数名とマレーシアの獣医関係者がイポー近郊の感染した農場近辺の哺乳類や鳥類 等のサンプルを大量に採集し,それらの抗体や抗原の調査が行われた.まだ不明 な点もたくさん残っているが,これまでに分かった点をまとめてみると
イ) オオコウモリの一種のフルーツコウモリで,216検体中20匹(Pteropus vampyrusとPteropus hypromelonusの血清それぞれ10%および27%)から,ニパ ウイルスの抗体が検出された(4)(表2).最近マレーシア東海岸のTioman島で フルーツコウモリの尿及び唾液からニパウイルスが分離された(5).
ロ) 犬はニパウイルスに対する感受性が比較的高く,呼吸器系の症状が見られ た.1999年3月と4月に採集された2ヶ所の汚染地域の犬66例中36例と26例中6例が ELISA抗体陽性であった.豚の出産後の胎盤を食べて感染した可能性も疑われて いる.また,ニパ病の発生した農場から15km以上離れた地域の犬からは抗体が検 出されなかったことから,犬から犬への感染はなかったものと考えられている. 感染した犬では血管炎,間質性肺炎が見られ,ニパウイルス抗原は肺,腎臓,脳 等で検出された.
ハ) 汚染地域の猫では24例中1例のみが抗体陽性であった.
二) 豚のニパウイルス病が流行していた時に山羊にも軽い呼吸器疾患が見られ たという報告があるが,ELISA抗体は65例中1例のみが陽性であった.
ホ) 馬では,イポーの汚染農場に隣接したポロ競技場の馬47頭中2頭が高い抗体 価を示したので陽性馬は殺処分されたが,これらの馬には症状らしきものは認め られなかった.その他の馬にも抗体陽性のものが3頭あり,その中の1頭はイポー から25km離れた村で神経症状を示して死亡した.その馬の脳には非化膿性髄膜脳 炎が見られ,Immuno-paraoxidase反応で髄膜にウイルス抗原の存在が認められ た.しかし,マレーシアの競走馬1,400頭を1999年に調査した結果は全て陰性で あった.シンガポールの競走馬の検査も同様に陰性であった.2000年になってか らの約3,400頭の馬の血清調査も全て陰性であった.
へ) その他イノシシ(22頭),野ネズミ(211匹),小鳥(81羽),トガリネズ ミ(21匹)の抗体検査の結果,中和抗体は全て陰性であった.イポー近辺の猿か らも中和抗体は検出されなかった.
 以上の結果を総合すると野生動物では,フルーツコウモリのみがニパウイルス や抗体を保有していたが,果たしてコウモリから直接豚に感染を起したか否かは まだよく分かっていない.また,感染したフルーツコウモリがウイルスを排出す る期間も分かっていない.豚以外の動物や人間は一応最終宿主と考えられている が,果たして犬から犬および馬から馬への伝染が起るのか否か,さらに詳しく研 究する必要がある(図4).
 豚から豚への感染は,感染豚の肺で増殖したウイルスが口や鼻からの分泌液に 混じり咳とともに飛び散って,それを吸入した豚が感染するものと考えられてい る.その他感染豚の血液,唾液,尿等の経口的摂取や精液を通じての汚染による 伝染の可能性も考えられる.しかし,畜舎間の伝染は比較的起きにくく,種豚と 肥育豚を分けて飼っている農場では伝播しなかったという報告がある.従って, 同じ畜舎内での伝染はあっても養豚農場間の空気感染は起らないものと思われ る.
 オーストラリアで行った感染実験では,ウイルスを皮下接種した2頭の豚のう ち1頭は接種後7〜10日で神経症状,もう1頭は呼吸器症状と発熱が見られ,接種 後14日目から中和抗体が検出された.ウイルスを経口的に投与した豚では14〜16 日後に軽い発熱を示した.また発症した豚の口や鼻からのウイルスの排出が確認 され,血液や扁桃からもウイルスを分離することが出来た.発症した豚と同居さ せた豚では9日後に活気がなくなった以外は症状は見られなかった.しかし,同 居後18日目から中和抗体の上昇が見られた.また,神経症状を示し,殺処分され た豚の肺,扁桃や膵臓からウイルスの分離が出来た(6).
 今日までの多くの情報を総合的に考えてみると,恐らくヘンドラウイルスもニ パウイルスも妊娠した動物の体内で増殖しやすく,大量のウイルスを産出する可 能性があるのかもしれない.また,オオコウモリも恐らく妊娠中のもので,より 多くのウイルスが増殖し,外部汚染と他種動物への感染の機会を高めるのではな いかと考えられている.

7.ニパウイルス感染症の対策と問題点
 マレーシア政府のとったニパ病に対する対策は次の三期に分けられる(7).
第一期は1999年2月28日から4月20日まで続いた汚染養豚農場の閉鎖と豚の淘汰 で,イポー地域やクアラルンプールの南部地域(Perak, Negri Sembilan, Selangor州)で合計901,228頭の豚が殺処分された.殺処分は抗体検査なしで行 われた.
 第二期は1999年4月21日に開始され,同年7月21日までの間に行われた.マレー 半島の889養豚農場のELISAによる抗体調査で,7月20日までに2回の血清収集が終 わり,そのうち50農場が陽性と判明した.その結果合計172,750頭の豚が淘汰さ れた.(約5.6%の農場が陽性であったことになる.)
 第三期は1999年10月から2000年3月までと4月から現在(2000年9月)に至る2つ の期間に分けられる.前期ではマレー半島の主なと畜場(8ヶ所)で採集された 7,576の血液サンプルの抗体検査で,合計414農場を調査した(1農場当たり10〜 20サンプル採集).その結果 67(0.9%)の血清がELISAテストで抗体陽性であ った.また,43農場(10.4%)で少なくとも1サンプルがELISAテストで抗体が陽 性であった.しかし,その後のオーストラリアでの中和抗体テストでは,ELISA テストで陽性であった全ての血清は陰性であった.後期(2000年4月-8月)には さらに634農場(17,571血清)及び雌親豚血清6,733サンプル(243農場)につい てELISAテストで抗体を調査した.3週間後に再び血清サンプルを採集し,抗体の 動きについても調査した(1農場平均30〜60サンプル採集).ELISAテストの結果 を総合すると17,571サンプル中391の血清(2.2%)が抗体陽性であった.また雌 親豚の6,733サンプル中258(3.8%)が陽性であった.しかし,このELISAテスト の結果をオーストラリアで行った中和抗体テストと比較するとその相同性は,わ ずか6.7%であった.これは最近のELISAテストの結果に非特異反応を示す血清が 多くなってきていることを示すものである.その主な理由は,最近オーストラリ アでつくられているELISAテスト用の抗原の製法がかわったためではないかと考 えられている.  2000年4月から8月までの抗体調査の結果,マレー半島のPerak州で2農場の豚が 全頭殺処分され,他の2農場に移動禁止令が出された.また,Penang州の5農場, Selangor州の2農場,Melaka州の3農場,Kedak州の1農場も監視下に置かれてい る.しかし,これらの農場も含めて1999年7月以後は豚にニパウイルス病の症状 はまったく見られていない.
 また,東マレーシアSarawak州の3農場の豚も全頭殺処分されて,15農場が監視 下に置かれている.主な理由はIgM抗体を有する人が見つかったためであった が,その後の検査では非特異的な反応であった可能性が高い.また,オーストラ リアに送られたSarawak州の豚の血清の中和抗体テストでは全て陰性であること が分かった.従ってSarawak州でのニパウイルス病の発生は本当にあったのか, 全て非特異的抗体陽性であったのか,目下調査中である.
 殺処分の方法は,初期には豚を殺してから埋めていたが,処理に関与した人が 感染する可能性が高いので,途中からは深い穴を掘って,その中に豚を追い落と してから殺処分する方式に切り替えた.それでも関与した者の中に抗体を保有し ている者がいることが分かった.また第二期の抗体調査に関与した者の中にも症 状は見られなかったが抗体の上昇した者がいることが分かっている.
 以上のことから,汚染現場に立ち入ったり,抗体調査に関与する者は,HEPAマ スクや手術用手袋,カバーオール,ゴム靴,眼鏡もしくは顔面シールドを使用す る必要がある.また,診断や研究のためにはP-3以上(BSL-3の実験室で特殊フー ドとメガネやマスクと衣服の使用)の隔離実験室が必要となる.

8.ニパウイルス感染症による被害(8)
 ニパウイルス感染症のマレーシアに与えた被害(1999年1月から2000年8月まで の間)は次のように試算されている.人間の感染による被害は256人の脳炎患者 と105人の死亡者の家族618軒に及ぶ.その他111軒の商店及び学校,銀行,その 他のサービス業者の閉店,休業による損害は莫大なものである.
 マレーシアにはニパウイルスの発生時に240万頭の豚が存在していたが1999年2 月28日から4月26日までの間に896軒の農家で合計901,228頭が殺処分され,農場 は閉鎖された.その後さらに50軒の豚が殺処分され,合計約110万頭が殺処分さ れたことになる.この殺処分された豚の損害は1頭平均53米ドルとすると5,830万 米ドル(約63億円相当)であった.殺処分された946農場ではその後も今日 (2000年10月)に至るまで同じ場所での養豚が禁止されているので,これらの農 場の投資に対する被害も考慮する必要がある.
 養豚業に従事していた労働者や関連業者(ワクチンや治療薬や栄養剤の製薬会 社,飼料業者,運搬業者等)の失業者は約36,000人と見られている.また,ニパ ウイルス病の発生前にはマレーシアからシンガポール及び香港に生豚が輸出され ていたが,これが禁止されたための経済的損失は1999年度だけで約1億2千万米ド ル(約130億円相当)であった.また,豚肉の国内消費量も約80%減少した.従 って養豚業者の経済的被害は1999年の本病発生期間だけで約1億2,400万米ドル (約134億円相当)であったと見積もられている.
 その他マレーシア政府は農家に対する補償金として3,500万米ドル(37億8,700 万円)が110万頭の殺処分された豚に対して支払われた.また,政府の防疫対策 に要した費用は1億3,600万米ドル(約146億円相当)であった.
 以上の理由からマレーシア政府は畜産行政を大きく変換する必要に迫られてい る.今後は養豚業は認可された地域においてのみ認められることになった.

9.日本の今後の対策
 オオコウモリはニパウイルスだけでなく,新しいLyssaウイルスや未知のウイ ルスの自然宿主となっている可能性が高い.しかし,感染したコウモリは終生キ ャリアーとなるとは考えられていない.オオコウモリの多い地域で家畜の飼育を 行う場合には,出来るだけオオコウモリと家畜との接触を防ぐ努力が必要であ る.また流産や死産の起った場合にはその原因を早急に調べるだけでなく,完全 な消毒を行い,汚染の広がりを防止する必要がある.また人への感染を防ぐため の必要な対策も取らねばならない.ヘンドラウイルスやニパウイルス感染が疑わ れる場合には獣医師は少なくとも上記のマスクやメガネやカバーオール等を身に 付けて対応すべきである.
 日本の取るべき対策としては,まずオオコウモリの輸入を禁止することであろ う.ペットとして扱うには余りにも危険な動物であることを十分認識する必要が ある.次に日本南部におけるオオコウモリの分布状態を調査しておく必要があ る.出来ればこれら3つの新興ウイルスの不活化抗原と抗体を入手しておき,原 因不明の病気の発生した場合には直ちに診断出来るように準備しておく必要があ る.また口蹄疫や豚コレラ等の発生した時と同様に豚の大量殺処分と埋却の方法 も事前に決めておく必要がある.
 今までにオオコウモリから分離されたウイルスにはヘンドラウイルス,ニパウ イルス,新しいLyssaウイルス,メナングルウイルス,ティオマンウイルス等, 調べれば調べる程数多くの新しいウイルスが分離されてきている.これらの多く が人獣共通伝染病を起し得るウイルスで,アジア太平洋地域にどのような分布を しているのかほとんど分かっていない.空を舞うコウモリから,地上の動物や人 間にいかなる経路で広がるのか,これからの研究課題として残されている.

10.おわりに
 マレーシアのニパウイルス感染症は1999年に約100万頭の豚を殺処分すること により清浄化が達成されたかと思っていたが,2000年の血清サーベイランスの結 果,ニパウイルスは未だにマレー半島で静かに広がっている可能性があることが 分かった.東マレーシア(Sarawak州)への飛火については未だ確定されていな い点が多い.本病の研究調査にはマレーシア政府や大学関係者及びアメリカやオ ーストラリアの研究者が関与しており,研究結果の全体像を正確に把握すること は極めて難しい.本病の自然宿主と目されているオオコウモリはヘンドラウイル スや狂犬病ウイルス等数多くのウイルスのキャリアーとなっているので,これか らもアジアで何が起こるか分からない.パンドラの箱の蓋を開けてしまったよう な感がある.
 マレーシアでの情報収集にご支援を頂いたDr M. N. Nordin,Dr Aziz Jamaluddin及びDr B.L. Ongに深く感謝いたします.

参考文献
(1) Rota, P. et al, Proc. International Virology Congress, Sydney (1999) VW31 B.03, p.38
(2) WH0, Meeting of the Working Group on Zoonotic Paramyxoviruses, Kuala Lumpur, 19-21 July 1999
(3) Hyatt, A. et al, Proc. International Virology Congress, Sydney (1999) VP31.19, p.186
(4) Field, H. et al, Proc. International Virology Congress, Sydney (1999) VP31.21, p.187
(5) Chua, K.B., Personal communication (October 2000)
(6) Middleton, D. et al, Proc. The 16th International Pig Vet. Soc. Congress, Melbourne (2000), p.552
(7) Nordin, M.N. et al, OIE Sci. Tech. Rev. 19(1), 160-165 (2000)
(8) Nordin, M.N. and Ong, B.N., Proc. The 16th International Pig Vet. Soc. Congress, Melbourne (2000), P. 548


表1 Paramyxovirus family(パラミクソウイルス科)
Paramyxoviridae (亜科)
Genera(属)
1.Parainfluenza viruses Human parainfluenza 1-3 etc.
2.Rubulaviruses Mumps, Newcastle disease    (Menangle virus) etc.
3.Morbilliviruses Measles, Canine distemper, Rinderpest viruses etc.
4.新グループ名の提案 Nipah virus, Hendra virus etc.   (Megamyxoviruses)


表2 マレーシアのオオコウモリのニパウイルス抗体の検出率
(Dr H. Field: WHO Meeting, Kuala Lumpur, 19-21 July 1999)
オオコウモリの種類 サンプル数 抗体陽性 陽性率 (中和抗体)
Pteropus vampyrus 57 5 8.9%
ジャワオオコウモリ
Pteropus hypomelonus 41 11 27%
ヒメオオコウモリ
Cynopterus brachyotis
コイヌガオフルーツ 74 2 2.7%
オオコウモリ
Eonycterus spelaea 44 2 4.5%
ヨアケオオコウモリ
Scotophilus kuhlii 49 1 2.0%
 その他約10種のコウモリは抗体陰性であった.