これはデイヴィッド・クーパーとロバート・ランザが書いた「Xeno」の和訳で、9月末に岩波書店から発売されました。クーパーと私はノバルティス社の異種移植安全諮問委員会で3年間ほど一緒だった関係で、翻訳を引き受けた次第です。
たまたま、9月末から10月初めまでシカゴでクーパーが会長として国際異種移植学会が開かれ、私もそれに出席しましたので、それに間に合わせて出版していただき、彼に手渡してきました。
私の書いた「異種移植」が客観的であったのに対して、クーパーは心臓外科医としての経験をもとに彼の主観を強く押し出しており、迫力ある内容になっています。
「訳者あとがき」の部分を出版社の了解を得て転載します。
あとがき
臓器移植は二0世紀後半にもっとも成功した医療のひとつとみなされている。これにより多くの人命が救われるようになったが、その一方で、深刻な臓器不足がもたらされてきた。全世界では十万人が臓器提供を待っていると推測されている。この事態の根本的解決策として登場したのが、人の臓器の代わりに動物の臓器を利用する、異種移植である。動物の臓器を移植する考えは昔からすでに存在していたが、近代医学にもとづいた研究が開始されたのは一九八0年代半ばからである。最初はチンパンジーやヒヒの臓器の利用から始まったが、これらの動物では臓器供給不足の解決に結びつかず、しかも危険な微生物汚染の可能性から現在では実質的禁止の状態になっている。
そこで注目されるようになったのがブタである。ブタでは、供給数にまったく問題がなく、家畜の中でもっとも微生物学的な品質管理が進歩していて、しかも遺伝子工学による改変が可能である。そのような利点から、ブタは、異種移植におけるドナー動物として開発研究の中心となっている。
本書は、ブタを用いた異種移植にかかわるさまざまな側面を、一般読者向けに専門家が解説したものである。とくに重要な点は、現在行われている人の臓器の移植が抱える多くの問題点を整理し、それらの多くが異種移植により克服できる期待を述べていることである。現在の移植医療がかかえる問題は、単に臓器不足だけではない。提供される人の臓器の品質が必ずしも最善のものではなく、時にはウイルス感染をもたらす危険性、移植が最悪の容態のレシピエントでしばしば行われざるをえないといった問題もあり、それらも異種移植により解決される可能性を指摘しているのである。
日本では、臓器移植に関する書物が数多く出版されているが、そのほとんどは脳死が主題となっており、移植後に生じる多くの問題にはあまり触れられていない。本書は異種移植が主題ではあるが、見方を変えれば、現在の臓器移植の実態を克明に描き出したものといえる。
筆頭著者のデイヴィッド・クーパー博士は、心臓外科医である。一九六三年にロンドン大学医学部を卒業し、一九八0年からは南アフリカのケープタウンにある、心臓移植のパイオニアとして有名なクリスチャン・バーナード博士の病院で、心臓移植の責任者として働くかたわら、移植の免疫学に関する研究に従事した。一九八七年に、米国オクラホマシティ・バプティスト・メディカルセンターに移り、心臓移植の態勢を確立するとともに、異種移植についての基礎的研究を行った。彼の研究は、ブタの臓器を移植した際に最初に遭遇する超急性拒絶反応が、ブタの特定の糖分子に対する抗体によりおこることを見いだし、異種移植研究の突破口を開いた。現在は、マサチューセッツ総合病院の移植生物学研究センターで、異種移植研究の世界的リーダーとして活躍しており、国際異種移植学会の会長もつとめている。
もうひとりの著者、ロバート・ランザ博士はペンシルバニア大学医学部を卒業し、ロックフェラー大学およびソーク研究所で遺伝子工学を学んだ後、現在はマサチューセッツ州にある、アドヴァンスト・セルテクノロジー社の医科学開発部門の副所長をつとめている。
ブタの臓器移植と細胞移植のそれぞれの領域の最前線にいる専門家が分担執筆していることになる。
訳者は、一九九六年に始まったノバルティス社の異種移植安全諮問委員会でクーパー博士と初めて出会った。三年間にわたる委員会活動のかたわら、彼から多くのアドバイスを受けて、一九九九年に「異種移植」(河出書房新社)を出版したのだが、これは、客観的立場から異種移植の周辺の問題も含めて入門書的にまとめたものである。本書はそれとは対照的に、移植の専門医の立場から主観的な側面を強く押し出した内容になっている。それだけに迫力があり、異種移植にとどまらず、現在の移植医療のさまざまな側面をリアルに描きだしている。
ところで、本書では、異種移植を自然界での動物進化への挑戦ととらえている。ブタの臓器を人に移植することは、異なる進化の段階の動物の間で不適合をもたらす。その中でも、免疫学的および生理学的な面での不適合が問題としてとらえられている。これに加えて異種移植にはさらに、ブタ由来の微生物感染という大きな問題がある。これら三つの観点から、異種移植の開発研究の現状をここで簡単に整理してみよう。
免疫学の観点で、ブタの臓器の移植の際に問題となる最初の大きなハードルは、豚の臓器が移植された後、数分以内におこる超急性拒絶である。この原因は、前述のようにブタの特定の糖分子に対する抗体が人の血液中に存在していて、それが移植されたブタ臓器に結合し、それにひきつづいて一連の補体の反応がおきるためである。これを回避するために、ヒト補体制御蛋白質遺伝子を導入した遺伝子改変ブタが作出され、このブタでは超急性拒絶が回避されることが、数多くのサルへの移植実験で確認されている。
これに次いでおこる第二のハードルである、急性血管性拒絶はまだ克服できていない。これまでのところ、カニクイザルにブタの腎臓が移植された場合には平均約一カ月(もっとも長い例で二カ月あまり)、ヒヒに心臓が移植された場合には平均一二日(もっとも長い例でも一カ月あまり)サルの命を支えることができているにすぎない。これは急性血管性拒絶によるもので、この問題が解決できないと豚の臓器を人に移植する臨床試験に入ることはできないと考えられている。
生理学の観点では、ブタの臓器が人の体内で正常に機能するかどうかが問題となる。これについては、上述の短期間にサルの体内で観察された情報がわずかに得られているだけで、まだ研究はほとんど進んでいない。
第三の微生物学の観点では、ブタ由来のさまざまな微生物による感染の防止が問題となる。とくにブタの染色体に組み込まれているブタ内在性レトロウイルスが移植を受けた人に感染するだけでなく、家族など周辺の人への感染を起こし、さらには社会にまで感染を広げるおそれがないかという点が大きな問題になっている。ウイルスには国境はないため、欧米諸国を初め、世界保健機関、国際経済協力開発機構(OECD)、欧州連合などの国際機関でも、異種移植の臨床試験実施に向けての微生物感染防止のためのガイドラインを作成してきている。国家レベル、さらに国際レベルでリスク管理の対策をたてた上で臨床試験に入ろうという姿勢である。
基本的には臓器と同じ問題を抱えているものの、その程度はやや軽いとみなされる細胞移植では、すでにブタの肝細胞を用いた体外での灌流、ブタ胎児の脳細胞のパーキンソン病患者への移植など、いくつかの臨床試験が欧米で始まっている。それとともに、これらの患者での検査から、人でのレトロウイルス感染のリスク評価についての情報も蓄積されつつある。
異種移植は、二十一世紀の新しい医学革命として大きな恩恵をもたらす可能性が期待される一方で、第二のエイズをもたらすかもしれない危険性を秘めている。社会は、これらの問題点を正しく理解して、この新しい医療を受け入れるかどうかを決定しなければならない。専門外の人々への解説書を目指して書かれた本書は、そのための重要な手引きになるものと確信している。
Kazuya Yamanouchi (山内一也) |