日本学術会議獣医学研究連絡委員会シンポジウム

他分野から見た獣医学教育のあり方

(以下は、平成12年4月6日につくば国際会議場において開催されたシンポジウムのうち、3題の講演の記録である。この他に、京都大学の加藤尚武氏による「人と動物の関係-倫理学の立場から-」および、関東第一サービスの小野寺威氏による「これからの獣医学教育に望まれるもの-製薬企業の立場から-」を加えて、5題の講演が行われた。)


公衆衛生分野における獣医学教育の課題

高原亮治(防衛庁参事官)、宮川昭二(厚生省)

現代社会において、人々が「動物」との接する機会はますます多様化している。その形態は、単に動物に直接接触することのみならず、間接に動物を利用しその恩恵を社会が受けていることでもあり、また、そのなかでも、例えば、前者では、従来であれば家畜飼養であり今日ではペットなどを中心とした愛玩動物、また将来的には介護犬などであり、後者では食肉、牛乳、卵など動物性食品の利用のほか、実験動物などである。このような機会は私たちに多くの利益や喜びを与えるものであるが、−方では、何らかの原因により、これらの新たな関係からは、時として弊害やそれに伴う社会的不安も生まれ出ている。

例えば、いわゆる人畜共通伝染病のように、従来からその疾病について知られているものにおいても、利用する動物種やその調達先、利用法などの変化により、これまでとは違った形でその姿をあらわす場合がある。また、従来から知られていない全く新しい疾病も報告される状況にある。これらは、いわゆる新興・再興感染症と呼ばれ、それらの疾病の台頭は社会構造の変化などを含めて新たな疾病に対する調査研究や対策が求められている。

従来、獣医師は、家畜の診療を中心に、ヒトが動物に直接的に接し利用する場において、その専門知識を持って動物の疾病治療を中心に行ってきたが、今日では、単に動物と人が接する機会以外のより広範囲に獣医師の活躍の場が広がりつつある。例えば、公衆衛生分野は、食肉など食品衛生のほか人畜共通伝染病などの対策において、獣医師が活躍しまた今後活躍を期待される分野ではあるが、そこでは従来にも増した専門知識とより広範な実践的技術が求められている。

公衆衛生分野における獣医学への期待

1)感染症対策

人に対する感染症のなかには、狂犬病のように動物を主体とし人に対し重篤な影響を及ぼすものがある。これらの疾病については、従来から獣医師により動物に対する直接的な管理とともに、動物の登録や予防接種などについて法律の整備など公衆衛生上の対応が取られている。一方、近年、ラッサ熱やエボラ出血熱のようなウィルス性出血熱など新たなに人に対する感染症が報告されている。これらの70年代後半から報告されはじめた感染症は、新輿・再興感染症と呼ばれ、それらのなかには動物由来感染症も多い。我が国の感染症対策では、平成11年4月に「感染症の予防と感染症の患者のための医療に関する法律」(いわゆる感染症新法。対象となる疾病及び疾病の概要は図1のとおり)を施行し、感染症対策の一環として動物由来感染症対策を進めており、動物由来感染症対策の強化が強く求められている。

2)動物性食品を中心とした食品衛生対策

動物性食品を中心とした食品衛生対策では、従来から食肉や牛乳、またそれらを利用した製品の安全確保について獣医師が活躍していきた分野である。食中毒の発生状況(図2及び表1)では、今日でも従来と同様に、サルモネラや病原性大腸菌などの微生物により発生するものは報告されるものの多数を占め、また、その原因となっている食品は動物に由来するものであることが多い。これらの食中毒に対しては、従来からサルモネラなどの食中毒原因菌と主な原因食品を対象にと畜場における衛生対策や食品の製造基準等を施行し、食品衛生対策を進めている。

一方、従来からの食中毒に加え、近年、狂牛病やいわゆる耐性菌の出現など畜産形態の変化を背景とする問題が顕在化し始めている。これらの問題は、単に畜産形態が集約化されたことによることのみならず、動物性タンパクの再利用や動物用医薬品の利用などの新たな技術の応用にあたって出現したものである。

それらの対策にあたって、例えば、狂牛病に関しては、現代の科学でもその病因物質を特定するには至っていないものの、動物性タンパクの再利用の制限など畜産形態の変更により対策が講じられている。このほか食品衛生法分野では、我が国では魚など魚介額の消費が多いが、貝毒など有毒魚介類など水産食品衛生対策も重要になっている。また、有機農法等の新興により畜産廃棄物由来に由来する食品汚染も懸念されている。

3)実験動物利用への貢献

実験動物の利用は、化学物質に関する毒性評価、疾患モデルの開発など広範にわたり行われている。環境中に排出される汚染物質や工業分野において使用される化学物質による人への健康影響の評価においては、実験動物を利用した毒性評価は必須であり、また、最近ではいわゆる環境ホルモン様作用に関して知見が集まりつつある状況にあり、より微量で微少な影響に関する毒性評価試験の実施が求められている。このような状況は、実験動物の長期間にわたる健康菅理をはじめ、被験動物の観察や病理診断などが重要になっている。

また、近年の急速な高齢化社会の到来により、生活習慣病をはじめ種々の慢性疾患などについて予防をはじめ治療法の開発などが求められる状況にある。これらのことから、実験動物の活用については、今後機能に着目した評価などより広範な需要が見込まれているものと思われる。

4)基礎医学研究への貢献

人工授精などの繁殖工学では獣医学領域での応用が進んでいるが、これらの技術の人への応用など活用範囲が拡大している。また、バイオテクノロジーの応用により、生物由来の製剤や生物学的組織など動物の利用を伴う技術開発などが進んでいる。これらの技術の利用にあたっては、獣医学領域で蓄積される知見の利用が期待される。

5)その他

環境ホルモンなどの環境衛生対策、社会福祉分野での愛玩動物利用などの分野で活躍が期待されている。

獣医公衆衛生学教育への提言

以上、述べてきたような公衆衛生分野での獣医師の活躍に対する需要や期待に対応するにあたっては、大学における獣医師養成のための専門教育においてこれらの専門分野に関する教育の充実が期待されるところである。そのアプローチとして、いくつかの連携が考えられる。例えば、実社会での二一ズと現在の教育内容の比較するとか、海外での教育内容との比較、また、世代間や地域間での交流も教育内容について多く示唆を示してくれるものと期待される。

これら公衆衛生分野での多様な期待に対応するため、獣医系大学ではこれらの分野の基礎を網羅する教育が求められている。そのため、獣医学系大学間での協カのみならず、内外の獣医系以外の教育研究機閨、公衆衛生行政機関との連携や交流を促進することが必要であると考える。また、獣医師に対する卒後教育も重要であろう。

特に公衆衛生分野では、専門分野での追加的な教育が必要であることから、例えば、大学教育を終了した者や公衆衛生分野で実務を担当する者を対象に、公衆衛生学修士課程での教育訓練が必要である。公衆衛生学修士課程は、海外ではスクール・オブ・パブリックヘルスとして定着している教育課程であり、我が国でも国立公衆衛生院が対応している。しかしながら、獣医学系を中心とした公衆衛生分野での高等教育が必要である。

上記の分野に対応するカリキュラムの開設するとともに、関連する獣医系以外の教育研究機関、公衆衛生行政機関、海外の教育研究機関との連携を促進するべきである。例えば、具休的な施策としては、次のようなものが想定される。

    実践型の獣医公衆衛生学(集中)講義の実施/公衆衛生学修士課程の設立

    外部からの教員の登用

    公衆衛生分野に従事する獣医師を対象とする公開講座の開設

    一般社会人への獣医学教育門戸の開放

・インターネツト上での啓発・啓蒙活動の推進

まとめ

現代社会において獣医師に期待されることは、動物に関連するさまざまな問題に対する専門的且つ実践的な応用技術である。しかし、それらの期待に対して、単に大学自身がその時々の社会の要請にあった教育を提供しよう努カするのみでは十分にかつ迅速に対応することは難しいことかもしれない。大学での教育を考えるうえでは、実際の現場での経験や調査研究の成果を応用技術伝達の場である大学教育に還元・活用する方法を検封するべきである。これらを通じて、より実践的な能カのある獣医師が活躍することを期待する。

 

獣医学への期待 −ニホンジカ研究の現場から−

小泉 透(森林総合研究所九州支所鳥獣研究室)

. はじめに

獣医師や獣医学研究者が野生動物に関わる機会はひと頃に比べ非常に増えている。都道府県の委嘱を受けたりボランティア団体に参加するなどして多くの獣医師が野生動物の救護に関わっている。野生動物を扱う専門部会を設置した獣医師会もあると伺っている。各地の動物園でも絶滅のおそれのある野生動物を中心に種の保存を目的としたさまざまな取り組みを始めている。野外調査でも生体捕獲の際の麻酔管理や死亡個体の分析などの場面で獣医学は大きく貢献している。ニホンカモシカはその代表的な例で,射殺個体がシステマティックに回収され数多くの獣医学的な知見が得られた。現在,ニホンジカ,ツキノワグマ,ヒグマなどで同様の取り組みが行われており成果が期待されている。

1995年には,野生動物の種の保存に関わる幅広い学術の確立を目的として「日本野生動物医学会」が設立された。この学会は学生会員の割合が高いことと(筆者も含め)獣医学分野以外の会員が多いことに特徴がある。これは,野生動物の種の保存を実効あるものとするためには獣医学だけでなく,野外での生態や生息環境,さらに野生動物を取り巻く社会経済条件などを含めた学際的な研究を開始する必要があることが認識され始めたことを示している。

1999年には「鳥獣保護及び狩猟に関する法律」が改正されて「特定鳥獣保護管理計画制度」が創設された。この制度では科学的知見をベースにして計画的な個体群管理を行うことが明確に規定されており,「科学的知見」を得るための体系と体制づくりが早急に求められている。

ここでは,野生動物をめぐるこれらの動きを紹介しながら,野生動物研究では既存の専門領域を越えた連携が求められており,それを基盤として野生動物学とも言うべき新たな体系を構築する必要が出てきていることを報告したい。

2.減少する野生動物

1990年代に入って生物多様性の保全に対する社会的な関心が高まってきた。1992年にリオデジャネイロで「環境と開発に関する国連会議」が開催され,日本を含め157カ国が生物多様性条約に署名したことが直接の契機となっているが,この背景には野生生物種の急速な滅少が世界的に危惧され始めたことがある。1991年に環境庁は「日本の絶滅のおそれのある野生生物」(日本版レッドデータブック)を公表した。これは国内で生息または生育記録のある種の内,絶滅のおそれのある種を絶滅種,絶滅危惧種.危急種,希少種,地域個体群の5つのカテゴリーに区分したものである。絶滅種は我が国ではすでに絶滅したと考えられる種または亜種,絶滅危惧種は絶滅の危機に瀕している種または亜種,危急種は絶滅の危険が増大している種または亜種.稀少種は存続基盤が脆弱な種または亜種,地域個体群は保護に留意すべき個体群,と定義されている。この中で,烏類と哺乳類では187種と13の地域個体群が絶滅のおそれがあると記載されている。これは日本産の鳥類,哺乳類のそれぞれ25%,40%に相当する。日本哺乳類学会も環境庁とほぼ同じ区分に基づいて,日本産哺乳類の約半分で何らかの保護策が必要となっていることを指摘している。

各カテゴリーの定義は国際自然保護連合(IUCN)の定義に準じているが,日本版レッドデータブックでは地域個体群をカテゴリーに加えている点が新しい。全国的には相当数生息しているような種でも地域によって絶滅の危険が高い場合には別途に個体群(集団)として保全する,という考え方は高い先見性をもち,その後の政策の中にさまざまな形で活用されている。

1993年には生物多様性条約に対応した国内制度の整備の一環として「絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律」(種の保存法)が施行された。種の保存法は稀少野生動植物種を指定して個体の捕獲や譲渡等を規制している他に,国内稀少野生動植物種については「生息地等保護区」を指定して生育・生息環境を保全することができる。林野庁も種の保存法の施行に連動して,1993年から国内稀少野生動植物種の個体の保護・保全と生育・生息環境の維持・整備を目的とした「稀少野生動植物保護管埋事業」を開始している。また,これとは別に1989年に保護林制度の再編,拡充を行い.稀少化している動物の繁殖地または生息地,他に見られない集団的な動物の繁殖地または生息地,その他保護が必要と認められる動物の繁殖地または生息地,などの要件を満たす区域(国有林)を「特定動物生息保護林」として保護することとしている。1998年現在,全国で30カ所,15,342haが特定動物生息保護林に指定されている。

3.増加する野生動物

1999年には「鳥獣保護及び狩猟に関する法律」が改正されて「特定鳥獣保護管理計画制度」(以下,特定制度とする)が創設された。この制度は都道府県知事が特定の鳥獣を指定し,独自の基準に基づいて個体数を管理するものである。西中国山地や紀伊半鳥のツキノワグマのように個体数が減少して地域的に絶滅のおそれの生じている地域個体群が指定され保護措置が取られることが期待される一方,個体数が増加して農林業被害や一部の地域で生態系のかく乱を引き起こしているニホンジカでは,これまで以上に強い個体数減少措置が取られることが予想されている。

カモシカほど刺激的に取り上げられることはなかったが,1960年代後半からニホンジカによる林業被害は徐々に増えてきている。1996年の全国の森林被害面積は5,360haでこの20年問に約5倍に増え,1989年以降いわゆる「獣害」の第1位を占めている。地域別には九州の被害面積が最も広く,次いで近畿,北梅道,関束の順となっている。近畿,関東では被害面積は徴増であるが,九州では被害が急速に拡大しており被害面積はこの5年問で10倍以上に増加している。北海道は牧草地・畑地の被害を合わせると1997年度の被害金額が50億円を越える激害地となっている。

北海道では1978年以降ほぼ6年ごとにアンケートによる分布調査を行っており,この20年ほどの間にニホンジカは北海道東部から中央部,西部に急激に分布を拡大し,潜在的に分布可能なすべての地域に生息し空間的にはほぼ満杯状態になっている。九州でも1995年に九州民有林・国有林シカ対策担当者連絡会が既存資料を基に分布図を作成した。これによると,九州では北海道と異なり中央山系を中心に中山間地域での分布の拡大が顕著で,これが被害面積の急激な増加に関係しているのではないかと考えられている。各都道府県ではすでにニホンジカ保護管理計画を策定し,メスジカを含めた狩猟や大規模な有害鳥獣駆除事業を開始している。

ところで,特定計画が従来の有害鳥獣駆除や狩猟と大きく異なるのは,個体数を減らす措置を取る場合でも「大雪などのリスクを見込んでも個体群が安定的に存続できる水準」を下回らないように管埋することを求めている点である。北海道ではこれを「許容下限水準」と呼び,個体数が1994年3月時点の個体数(約12万頭と推定している)の5%以下になった場合や大雪などによって許容水準を割り込むことが予想されたときには禁猟措置を取ることを定めている。乱獲と禁猟の2つの選択肢しか持たなかったこれまでのニホンジカ管理が,個体数の水準に応じて取るべき措置を弾力的に変更するような管理方式に改めたことは大きな前進だといえる。北海道以外でこのような下限水準を求めた例はないが,少なくとも積雪地域では同様な考え方が適用できそうである。一方,雪の降らない西日本では環境の大きなゆらぎ(カタストロフ)によって個体群が絶滅した報告はなく,下限水準をどのように定めるかが大きな課題となっている。気になる報吉はある。それは瀬戸内海の小豆島で1875年に「獣疫」が流行してニホンジカのほとんど斃死した,というものである。「獣疫」が何を意味するのか,個体数はどのように減少していったのか,は不明であるが,ニホンカモシカがパラポックスウィルスに感染して死亡している例もあり,西日本のニホンジカの病態調査は個体群管理の上で重要なチェック項目になるかもしれない。

個体数の水準に応じて管理方針を変更するといっても,個体数がどの水準にあるかがわからなければ方針を変更することができない。そこで,特定計画では計画期間中は個体群の動向を監視するモニタリング調査を継続的に実行し,計画の実効性を評価して管理方針の意志決定にフィードバックさせることを求めている。この考え方はフィードバック管理または適応的管理と呼ばれている。野外の個体群は不確実で予測困難な変動をすることが多いので,ある特定の理論やモデルを使って長期間管理することはかえって危険である。そこで,個体群がどのように変化したか,その結果を読み取って次に行う操作法を決めようというものである。管理の初期段階には個体群に関する情報が少ないので粗放にならざるを得ないが,結果の読み取り方を誤らなければ.管理の集約度は情報の蓄積量に比例して高まっていく。この結果の読み取りがモニタリング調査であり,特定計画が「科学的な保護管理を推進する」と述べている「科学的な」中核をなす。個人的には「照査法」という言葉が適しているとも思うが,それはさておき当然結果も前もって予測することは困難なので意志を決定する側にも柔軟で素早い対応が求められる。方針は時に大きく変わるので,関係者の合意を形成するブロセスも重要である。

モニタリング調査は大きく個体数調査と動態調査に分けられる。広域を一斉に調査して個体数を推定する調査は人員と予算の関係から毎年実施することは不可能である。そこで,個体数調査を数年ごとに行い,途中年は個体数の増減を示す指標を調査して対象とする個体群を継続的にモニタリングすることが考えられている。

積雪地域では雪がある(シカを発見しやすい),シカが越冬地に集合する(シカを数えやすい)ことから航空機を用いた目視によるカウント調査が普及しつつあり,大型の赤外線スキャナを併用して目視による見落としを低くするなども試みも行われて比較的精度の高い結果が得られている。一方,積雪のない西日本ではフンを用いた個体数推定が一般的である。この方法は調査プロット内のフン数,単位時間あたりのフンの消失率,単位時間あたりのシカの排泄フン数,などのパラメータを用いて個体数を推定するため,それぞれのパラメータのバラツキに影響されて個体数の推定誤差がかなり大きくなってしまう。このため,フン法の改良とともに新たな個体数推定方法を開発する必要が出てきている。

動態調査には現在CPUE(単位努力量あたりの捕獲数,l猟期期間中に捕獲された総数を同期間中に出動したのベハンター数で割った値)を指標として用いることが提案されているが,同時に野外調査でシカ個体群の示す変化を直接読みとる方法を開発してクロスチェックする必要がある。さらに,動態調査では単に数的変動をモニタリングするのではなく,変動を司るメカニズムや要因にまで踏み込んで解析することが望ましい。要因分析を含んだ動態調査を確立するためには,従来の生態学的な手法だけでは限界があり,生理解剖,病理など獣医学研究者の参加が期待されている。特に,西日本では当面個体数推定値が大きな幅をもたざるを得ないため,精度の高い動態調査方法の確立が緊急の課題となっている。

4.個体群を保護管理する科学

日本版レッドデータブックの公表から特定鳥獣保護管理計画制度の創設にいたる一連の流れをまとめると,種の保全の基本が地域個体群の存続にあることが理解されてきた,生息環境を確保する重要性が認識されるようになった,フィードバック管理を基本とすることによって対象個体群の不確実な変動に対応できる制度を導入した,など原則部分に長足の進歩が見られる。しかしながら,実際の計画を支える技術にはなお解決すべきいくつもの問題が残っている。フィードバック管埋を説明する際に「走りながら考える」という表現がよく用いられるが,ゴールは分かっていても走り方が分からないままに「走り手」が倒れてしまうようなことにならないようにしなければならない。理念と技術の間の大きなかい離を早急に埋める努力が必要となっている。

個体数推定,個体群モニタリング,生命表の作成,環境利用など,これから想定されるさまざまな調査の中心になることが予想される方法にマーキング法がある。これは,動物に標識を付けて放逐しその行動を迫跡するもので,記号放ちく法,標識再捕法,放飼回収法,捕獲再捕獲法などとも呼ばれる。標識の定義を広くとらえれば,小型発信器を組み込んだ首輪を付けて位置を追跡するラジオテレメトリー法もマーキング法の一種である。最近はGPS装置を組み込んで位置を自動記録する首輪が(まだ非常に高価ではあるが)市販されている。また,脱落の心配のない標識として外部からの信号に自動的に信号を送り返すトランスポンダーを皮下に埋設する方法も開発されている。標識個体を再捕獲せず,赤外線センサーの付いた自動撮影装置を用いて出現頻度を記録する方法も提案されている。再捕獲の手間が省けるだけでなく,トラップシャイと呼ばれる再捕獲率の低下を防ぐことができる。さらに,フンや体毛から抽出したDNAを個体識別用の標識として用いる方法も考案されている。これだと個体を捕獲する必要がないので,絶滅のおそれのある種や個体群にも応用できる。DNA法以外の方法では少なくとも一度は生体捕獲(生け捕り)するので,捕獲時に目的に応じて材料を採取することができる。中でも,生理,繁殖,病理,寄生虫,に関する情報は個体群変動に関わる要因を考える際に重要になる。欧米では水鳥やシカ類を対象に毎年大規模な生体捕獲が行われ,多くの個体に標識が付けられて保護管理の基礎データが収集されている。日本ではこうした調査はごく限られた地域で実施されているだけだが,今後さまざまな地域にマーキング法を中心とした調査体系を確立していくために,生体捕獲時に必要な化学的不動化(麻酔)や保定,さらに捕獲個体の生体内情報を読み取る知識と技術をもった獣医師や獣医学研究者の参加が不可欠となっている。

この他に,事故や疾病による斃死個体や狩猟や有害鳥獣駆除で捕殺された個体を用いて個体群を解析する方法がある。この方法の利点は,条件が整えば新鮮なサンプルを短期間に大量に収集できるところにある。生体捕獲の場合より多くの部位から採材することができるのも利点の一つである。研究者一行政担当者一ハンターの3者間にネットワークが作られ,捕殺個体から分析用の材料がきちんと提出されるような仕組みができあがっている地域が徐々にではあるが増えてきた。ニホンカモシカでは捕殺個体がシステマティックに回収され数多くの獣医学的な知見が得られた。これらは生態学や行動学の成果と相互に補完させることによりニホンカモシカの生物学を飛躍的に発展させた。調査デザインの完成度が非常に高く,研究成果報告書の「ニホンカモシカの繁殖,形態,病態および個体群特性に関する基礎的研究」は現在でも獣医学研究者が野生動物を扱う際の参考になると思われる。死亡個体の齢データの扱い方についてはCaughley(1977)の”Analysis Of Vertebrate Population”に詳しく解説されている。

5.おわりに

以上,野生動物をめぐる最近の動きを足早に見てきた。ここで改めて強調したいのは,種を保存ためにはそれを構成する地域個体群を長期に安定して存続させることが不可欠であること,個体群の存続を支える科学と制度にはこれまでにない程強い実効性が求められていること,である。野生動物研究に対する獣医学のアプローチには「個々の環境行政上の依頼や社会的要請などに対応してきたものが主であり,断片的,部分的で,どちらかと言えば,受け身的であったと言えるのではないだろうか」という指摘があるが,これは野生動物の生息環境を保護管埋すべき分野である林学にもあてはまる。戦後,森林学より木材生産学として発展してきた林学は,しかしながら,現在その教育研究目的を大きく転換させる必要に追られている。先に紹介した地球サミット以降,ヘルシンキプロセス,モントリオールプロセスと呼ばれる作業部会の中で「持続可能な森林管埋が行われているかどうか」を評価する国際的基準のlつに「生物多様性が維持されていること」という項目が盛り込まれたためである。これに対応して,森林総合研究所でも生物多様性の維持を重点的に推進すべきな研究課題のlつとした。また,カリキュラムの大幅な再編整備を行っている大学も多いと間いている。野生動物保護管理学の構築を志す学生や大学院生が輩出されるようになることを期待している。

本稿は,第129回日木獣医学会学術集会で報告した内容を一部加筆修正したものである。報告の機会を与えていただいた高橋貢先生はじめ日本学術会議獣医学研究連絡委員会の諸先生方に改めてお礼申し上げます。

なお,引用文献は紙数の関係上掲載しなかった。

e-mail:koizmy@ffpri-kys.affrc.go.jp)

獣医教育の将来

松本正和(オレゴン州立大学教授)

はじめに

「芸術は社会の鏡」とよく言われる。美しい物は無限に作られていく。それは万象無常だからに他ならない。不朽の名作という芸術作品もそれを嘆賞する人が多数いるという現在という時の現象に過ぎない。教育も社会が変化するにつれ、その目的と方法は常に変化していかねばならない。この稿では現在米国で起こりつつある二現象について簡単に触れてみたい。現在の日本の獣医教育に直接関わりは無いかもしれないが、教育関係者には何等かの参考になるかもしれない。

獣医教育の根本的課題

獣医教育の目的は現在すぐ役立つ獣医師を養成することと、獣医師という職業を変わって行く社会の中で進歩させ、発展させていくという人格・創造力・勇気を培う両面がある。「日本と欧米では獣医師の地位と報酬に、又期待される社会の役割に大差があり、両者を比較することには余り意味が無い」と私が35年前に大学に通っていた頃には言われた。しかし現在は、伴侶動物と人問の関係という点で欧米と日本の差は殆ど無い。それに伴って獣医師の役割も大きく変化した。又日本の社会状態と日本人の生活スタイルの変化に伴い、大学生の学習態度と大学教育に対する期待が変わりつつある。獣医教育の課題はこの2種類の変数―獣医師の社会的役割と学生の学習態度を敏感に認知して、教育の内容と方法に工夫を凝らし、常に改良していかねばならない。このような課題については、国公立と私立の獣医教育期間に差は無いし、欧米の教育者達も同じ問題を抱えている。現在、国公立の獣医科の再編成をどうするかでいろいろ議論されているが、表面上の行政・政治的問題と上に述べた基本的課題については、区別して考えた方が良いのではないか。

I.問題解決学習法(Problem-based Learning :PBL)

ハーバード大医学部では10年前から伝統的教育法をPBLで全面的に置き換えている。北米では10校程、北欧でもほぼ同数の医学部がこの方法に切り換えている。歯学や看護学部にもPBLが浸透しつつあり、日本でも獣医学部で行われつつあると間く。獣医ではコーネルが過去5年問この方法を実施している。

PBLとは何か

実際例を挙げるのが最も良いが、紙面の都合もあるので、重要な点だけに触れてみたい。臨床例を講義に使っている事実だけでPBLと言えることはないが、通常「PBL法を採用している」と言う場合、I)教官中心の講義・実習教育法から小グループ制討論に基いた学生中心の教育法への変換であり、U)理論を習い憶えるという受身的学習法から学生の意志と努力に基いた自発的学習法でもあり、皿)臨床問題解決を目的とし、実用に即した総合的知識と技術の習得過程でもある。伝統的な講義教育の場合、理論と応用をはっきり区別して、理論は永久的事実で、応用はそれに根ざして発展すると教官も学生も考えがちである。PBL法では、臨床問題、例えば「腹痛をどう処理するか」を教育目的の中心におき、学生が与えられた教材に基き、小グループの話し合いを通じていろいろな仮説を立て、それらの仮説をテストするにはどういう基礎知識がなければならないか、という認識を経て、それ等を段階的に学習していくのである。従って、腹痛に関する解剖・生理・生化学の知識も「腹痛の処理に必要な事柄」として相互の関連性を含んで学生に理解され、知識となって記憶される。利用される臨床例は絶対に作為してはいけないということになっている。Facilitator(促進者)と呼ばれる役の人がグループにつき一人づつついているが、その人は教えてはいけないことになっており、話し合いはあくまで学生の意志によって進められる。しかしその裏には、教える目的と範囲の設定、それに適当な臨床例の選択、データや臨床症状の学生への段階的提示(Study Package)とビデオ・スライド・ソフトの作成等が教官のグループによる討論を重ねて綿密に計画されなければならない。PBLは学生にとっては現場の問題を最善の方法でタイミング良く解決する過程を学習することだが、教官にとっては、限られた時間の中で、目的に必要な知識と技術を学生に段階的に又自発的に学習させることであり、その過程を通じて獣医師として必要な思考力・情報収集力・決定力・コミュニケーション力などを養成していくことである。伝統的教育法下では、教官が事実や論理をまず教えなければ、学生は考えることも出来ないと思いがちだが、それは教官の思っている通りに学生に考えてもらいたいという教官の願望の反映でしかない。PBL法では学生はすでにその問題について、過去の経験・知識から彼等なりの解決法を持っているという前提から始め、ではより良い方法はあるだろうか、という話し合いが始まり、腹痛のメカニズムの勉強に入っていくという風に進んでいく。この過程は獣医師に一生必要な「やる気」と自発的学習癖を養うことになる。しかし講義を聞き記憶することに慣れた学生が全員PBL法にスムーズに移行しているわけではない。

小グループ学習と促進者

先にも述べた様にPBLの基本は小グループ(10から15人位が適当)の学生が与えられたパッケージのガイドに治って話し合いを進めていくことである。

促進者の役目は教えることではなく、自発的・民主的であり同時に生産性の高いグループ学習過程の形成と学習の進展と時間配分の考慮である。従って促進者は権威ある専門家である教官とは大きく異なった技術を必要とされ、その養成と訓練は最も重要なPBL法の基礎である。例えば学生が重要な仮説を見落としている場合、促進者はそれを直接指摘するのではなく、「そういう風に治療しても血圧が下降の一途を示す時はどうするのか」という様に実際的な質問をタイミング良くしていくのである。この過程を通じて、学生が決定をする原理を身につけ、問題解決の技術(質疑事項の決定→仮説の設定→仮説のテスト→結論)を習得し、必要な自己表現、他者に対する理解力、反対説者に対する妥協技術といった独立した獣医師に必要な真の資格を身に付けていく。言葉を変えると、知識と技術の獲得の前にこういう職業的人格形成と対人技術を完成させる目的がある。こういう面から見るとPBL法については教育と研究は不可分という通説も再考する要があるかも知れない。

PBLの実施に伴う条件

利点:PBL法は伝統的な教育法に較べて多くの面で現在の学生の要求に合っている。

国家試験への影響:コーネル獣医学部の統計によれぱ、PBL法の前後の学生の成績を比較すると有意差はなかったという結果が発表されている。国家試験の為にPBL施行後のコーネルの学生は問題集等で勉強したらしいが、大きな不満は無かったと間いている。

財政面:PBLに切り換えるには少なくとも3年位の準備期間が必要であり、教材・補教材の作成、促進者の養成訓練に成る程度の支出が必要であり、又現教官が長時間をそれらに費せねばならない。しかしその段階を経てしまえば、教育は研究とはっきり区別できて、財政面ではより能率的管理ができる。又大世帯の学校よりは少数校の方がやり易い。

教官の概念の変換:自分がある分野での専門家であり、世界一流の専門知識を学生に教えていると自負している教官にとって、幼稚な学生の話し合いを真面目に聞くという立場に成り下がることは耐え難いだろう。PBLを促進する立場からはこれが最大の障害である。従ってPBLに切り換える前提条件として教官の90%以上がその目的と原理を理解し、その成功に向かって努力を惜しまないという態度が必要である。

PBLは何故普及しないのか:米国では医学教育機関の殆んどは州立である。他州の学部に入学すると3倍以上の授業料を払わねばならない。従って他州でより良き教育が行われていても結構無関心でいられる。私学の方がPBL方を取り入れているのもそういう理由からである。学生が学校を自由に選択できる国(例えばオーストラリア)ではPBL法が医学教育に普及している。

教官の間のPBLに関する研究と話し合いが第一歩

日本の現況下では同志が集って「PBLを日本の条件下で行うにはどうするか」、「伝統的教育法から徐々にPBLに切り換えていくことが可能か」等の研究・考察をする場として研究会を作り、学会その他の場での意見交換を行っていくことが、第一歩ではないだろうか。獣医教育研究のゴールは単に欧米に倣うのではなく、日本の現在に適した獣医教育法を創造していくことであろう。

U.学生の学習態度の変化

新聞・TV等により御存知のように、米国では中学・高校に暴力事件が多発している。銃がどうのこうのという議論は尽きないが、その底に起っている事実は、些細なことで怒りを爆発させる傾向が子供に年々増大して、学習の大きな妨げになってきていることである。家庭と社会の環境が変化したことに対する子供の反応だが、特定の原因は解明されていず、今後の研究に待たねばならない。しかし、社会の第一歩の反応は「先生は何をやっているのだ」ということになり、中学・高校の先生は、真の責任は社会環境と親の教育にあるにもかかわらず、子供と親の板挟みになって大変である。近年放射性糖を注入後PET(Positron―Emission  Tomography) Scanを行うと、脳のどの部分に血流が増大するかが解るようになった。又MRI弾(Magnetic Resonance Imaging)によっても脳全体が一秒以下の問隔でScanできる。この二つの方法を使うことにより脳のどの部分が学習と記憶に大切かという脳科学・学習科学は1990年代に飛躍的に進歩した。又この二方法により学習に困難を示す子供も脳の異常として診断できるようになった。米国の小中高の先生はこれらの新しく解明された事実を利用して現在の教育法を改良していこうという努力が行われている。こういう児童の態度変化はいずれは大学教育にも反映されるので、以下に

重要な点を挙げてみる。

記憶のメカニズム

記憶には短期と長期がある。短期記憶は電話帳を見て電話番号を知ることに代表されるように、無意識のうちに記憶され、又短時間のうちに消失してしまう。しかし何等かの刺激があるとそれは活動記憶(Working Memory)というステージに上り、そこでSense(理解できることとして過去に記憶したことへの関連づけ)とMeaning(自己の生存と繁栄に役立つか)において自己判断され長期記憶に貯えられるか、消失される。その長期記憶は後に必要に応じて再度活動記憶ステージに取り出され、新たなSenseとMeaningを与えられ変更された形での長期記憶となる。このプロセスの繰り返しにより、知識がそれこそ血となり肉となるわけで、日本流に言えば「勘」が形成される。こういう教えたことが学生に記憶される過程を教育考は知っておく必要がある。

記憶は均一に起らない

上記のPETとMRIの利用によって、40分の講義の場合、最初の15分間と最後の10分間に最も効率よく記憶されることが解っている。従って40分の講義なら最初の15分以内に重要な事はまず教えてしまい、次の15分問はそれについての実例を示したり、質間をしあったりすると良い。最後の10分間は終結(Closure)と言われるプロセスを行うと良いと言われている。上に述べた様に長期記憶に入れるには個人の自発的なSenseとMeaningづけが必要である。終結は学生に自発的にこの過程を行わせるのが目的で先生が要約するのとは異なる。例えば米国南北戦争の起った歴史について勉強した場合、「3分間以内に南北戦争の重要な原因について三つ挙げてノートに書きなさい」と先生が提案する。3分後にその結果についてクラスで話し合うと、先生は自分の講義が有効だったか解るし、学生にとっては自分の理解が問違っていたら訂正する機会となり、又その一連の経験によって南北戦争の原因が記憶され易くなる。

各種教育法の有効性

「教えることは習うことである」と言われるように習ったことを他人に教えるプロセスは記憶にとって非常に有効である。今、仮にそれによって90%が記憶されるとする。次に有効なことはグループによる話し合いで、グループが小さい程効率が良いが大体50%位である。続いてデモンストレーション(30%)、ピデオ・スライド(20%)と続き、最も効率の悪いのは講義で、5%が記憶されるに過ぎない。従って多量の事柄をぎっしりと講義して試験をして済ませることは反省しなければならない。事柄を重要な順に整理して教える過程で常に学生がどれだけ理解しているかに留意して、より有効な教有法を工夫していかなければならない。

Further Reading

Alavi C.1995.“Problem‐based learning in a health sciences curriculum, ”Routledge, London & N.Y.

Sousa DA.1995.“How the brain learns,”National Ass’n of Secondary School Principals,  Reston,VA U.S.A.

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