獣医教育の将来

松本正和(オレゴン州立大学教授)

 

 


はじめに
 「芸術は社会の鏡」とよく言われる.美しい物は無限に作られていく.それは 万象無常だからに他ならない.不朽の名作という芸術作品もそれを嘆賞する人が 多数いるという現在という時の現象に過ぎない.教育も社会が変化するにつれ, その目的と方法は常に変化していかねばならない.この稿では現在米国で起こり つつある二現象について簡単に触れてみたい.現在の日本の獣医教育に直接関わ りは無いかもしれないが,教育関係者には何等かの参考になるかもしれない. 獣医教育の根本的課題
 獣医教育の目的は現在すぐ役立つ獣医師を養成することと,獣医師という職業 を変わって行く社会の中で進歩させ,発展させていくという人格・創造力・勇気 を培う両面がある.「日本と欧米では獣医師の地位と報酬に,又期待される社会 の役割に大差があり,両者を比較することには余り意味が無い」と私が35年前に 大学に通っていた頃には言われた.しかし現在は,伴侶動物と人問の関係という 点で欧米と日本の差は殆ど無い.それに伴って獣医師の役割も大きく変化した. 又日本の社会状態と日本人の生活スタイルの変化に伴い,大学生の学習態度と大 学教育に対する期待が変わりつつある.獣医教育の課題はこの2種類の変数―獣 医師の社会的役割と学生の学習態度を敏感に認知して,教育の内容と方法に工夫 を凝らし,常に改良していかねばならない.このような課題については,国公立 と私立の獣医教育期間に差は無いし,欧米の教育者達も同じ問題を抱えている. 現在,国公立の獣医科の再編成をどうするかでいろいろ議論されているが,表面 上の行政・政治的問題と上に述べた基本的課題については,区別して考えた方が 良いのではないか.

T.問題解決学習法 (Problem-based Learning :PBL)  ハーバード大医学部では10年前から伝統的教育法をPBLで全面的に置き換えて いる.北米では10校程,北欧でもほぼ同数の医学部がこの方法に切り換えてい る.歯学や看護学部にもPBLが浸透しつつあり,日本でも獣医学部で行われつつ あると間く.獣医ではコーネルが過去5年問この方法を実施している. PBLとは何か
 実際例を挙げるのが最も良いが,紙面の都合もあるので,重要な点だけに触れ てみたい.臨床例を講義に使っている事実だけでPBLと言えることはないが,通 常「PBL法を採用している」と言う場合,I)教官中心の講義・実習教育法から小 グループ制討論に基いた学生中心の教育法への変換であり,U)理論を習い憶え るという受身的学習法から学生の意志と努力に基いた自発的学習法でもあり, 皿)臨床問題解決を目的とし,実用に即した総合的知識と技術の習得過程でもあ る.伝統的な講義教育の場合,理論と応用をはっきり区別して,理論は永久的事 実で,応用はそれに根ざして発展すると教官も学生も考えがちである.PBL法で は,臨床問題,例えば「腹痛をどう処理するか」を教育目的の中心におき,学生 が与えられた教材に基き,小グループの話し合いを通じていろいろな仮説を立 て,それらの仮説をテストするにはどういう基礎知識がなければならないか,と いう認識を経て,それ等を段階的に学習していくのである.従って,腹痛に関す る解剖・生理・生化学の知識も「腹痛の処理に必要な事柄」として相互の関連性 を含んで学生に理解され,知識となって記憶される.利用される臨床例は絶対に 作為してはいけないということになっている.Facilitator(促進者)と呼ばれ る役の人がグループにつき一人づつついているが,その人は教えてはいけないこ とになっており,話し合いはあくまで学生の意志によって進められる.しかしそ の裏には,教える目的と範囲の設定,それに適当な臨床例の選択,データや臨床 症状の学生への段階的提示(Study Package)とビデオ・スライド・ソフトの作 成等が教官のグループによる討論を重ねて綿密に計画されなければならない. PBLは学生にとっては現場の問題を最善の方法でタイミング良く解決する過程を 学習することだが,教官にとっては,限られた時間の中で,目的に必要な知識と 技術を学生に段階的に又自発的に学習させることであり,その過程を通じて獣医 師として必要な思考力・情報収集力・決定力・コミュニケーション力などを養成 していくことである.伝統的教育法下では,教官が事実や論理をまず教えなけれ ば,学生は考えることも出来ないと思いがちだが,それは教官の思っている通り に学生に考えてもらいたいという教官の願望の反映でしかない.PBL法では学生 はすでにその問題について,過去の経験・知識から彼等なりの解決法を持ってい るという前提から始め,ではより良い方法はあるだろうか,という話し合いが始 まり,腹痛のメカニズムの勉強に入っていくという風に進んでいく.この過程は 獣医師に一生必要な「やる気」と自発的学習癖を養うことになる.しかし講義を 聞き記憶することに慣れた学生が全員PBL法にスムーズに移行しているわけでは ない.

小グループ学習と促進者
 先にも述べた様にPBLの基本は小グループ(10から15人位が適当)の学生が与 えられたパッケージのガイドに治って話し合いを進めていくことである.
 促進者の役目は教えることではなく,自発的・民主的であり同時に生産性の高 いグループ学習過程の形成と学習の進展と時間配分の考慮である.従って促進者 は権威ある専門家である教官とは大きく異なった技術を必要とされ,その養成と 訓練は最も重要なPBL法の基礎である.例えば学生が重要な仮説を見落としてい る場合,促進者はそれを直接指摘するのではなく,「そういう風に治療しても血 圧が下降の一途を示す時はどうするのか」という様に実際的な質問をタイミング 良くしていくのである.この過程を通じて,学生が決定をする原理を身につけ, 問題解決の技術(質疑事項の決定→仮説の設定→仮説のテスト→結論)を習得 し,必要な自己表現,他者に対する理解力,反対説者に対する妥協技術といった 独立した獣医師に必要な真の資格を身に付けていく.言葉を変えると,知識と技 術の獲得の前にこういう職業的人格形成と対人技術を完成させる目的がある.こ ういう面から見るとPBL法については教育と研究は不可分という通説も再考する 要があるかも知れない. PBLの実施に伴う条件
 利点:PBL法は伝統的な教育法に較べて多くの面で現在の学生の要求に合って いる.
 国家試験への影響:コーネル獣医学部の統計によれぱ,PBL法の前後の学生の 成績を比較すると有意差はなかったという結果が発表されている.国家試験の為 にPBL施行後のコーネルの学生は問題集等で勉強したらしいが,大きな不満は無 かったと間いている.
 財政面:PBLに切り換えるには少なくとも3年位の準備期間が必要であり,教 材・補教材の作成,促進者の養成訓練に成る程度の支出が必要であり,又現教官 が長時間をそれらに費せねばならない.しかしその段階を経てしまえば,教育は 研究とはっきり区別できて,財政面ではより能率的管理ができる.又大世帯の学 校よりは少数校の方がやり易い.
 教官の概念の変換:自分がある分野での専門家であり,世界一流の専門知識を 学生に教えていると自負している教官にとって,幼稚な学生の話し合いを真面目 に聞くという立場に成り下がることは耐え難いだろう.PBLを促進する立場から はこれが最大の障害である.従ってPBLに切り換える前提条件として教官の90% 以上がその目的と原理を理解し,その成功に向かって努力を惜しまないという態 度が必要である.
 PBLは何故普及しないのか:米国では医学教育機関の殆んどは州立である.他 州の学部に入学すると3倍以上の授業料を払わねばならない.従って他州でより 良き教育が行われていても結構無関心でいられる.私学の方がPBL方を取り入れ ているのもそういう理由からである.学生が学校を自由に選択できる国(例えば オーストラリア)ではPBL法が医学教育に普及している.
 教官の間のPBLに関する研究と話し合いが第一歩 日本の現況下では同志が集って「PBLを日本の条件下で行うにはどうするか」, 「伝統的教育法から徐々にPBLに切り換えていくことが可能か」等の研究・考察 をする場として研究会を作り,学会その他の場での意見交換を行っていくこと が,第一歩ではないだろうか.獣医教育研究のゴールは単に欧米に倣うのではな く,日本の現在に適した獣医教育法を創造していくことであろう.

U.学生の学習態度の変化
 新聞・TV等により御存知のように,米国では中学・高校に暴力事件が多発して いる.銃がどうのこうのという議論は尽きないが,その底に起っている事実は, 些細なことで怒りを爆発させる傾向が子供に年々増大して,学習の大きな妨げに なってきていることである.家庭と社会の環境が変化したことに対する子供の反 応だが,特定の原因は解明されていず,今後の研究に待たねばならない.しか し,社会の第一歩の反応は「先生は何をやっているのだ」ということになり,中 学・高校の先生は,真の責任は社会環境と親の教育にあるにもかかわらず,子供 と親の板挟みになって大変である.近年放射性糖を注入後PET(Positron― Emission Tomography)Scanを行うと,脳のどの部分に血流が増大するかが解る ようになった.又MRI弾(Magnetic Resonance Imaging)によっても脳全体が一 秒以下の問隔でScanできる.この二つの方法を使うことにより脳のどの部分が学 習と記憶に大切かという脳科学・学習科学は1990年代に飛躍的に進歩した.又こ の二方法により学習に困難を示す子供も脳の異常として診断できるようになっ た.米国の小中高の先生はこれらの新しく解明された事実を利用して現在の教育 法を改良していこうという努力が行われている.こういう児童の態度変化はいず れは大学教育にも反映されるので,以下に重要な点を挙げてみる.

記憶のメカニズム
 記憶には短期と長期がある.短期記憶は電話帳を見て電話番号を知ることに代 表されるように,無意識のうちに記憶され,又短時間のうちに消失してしまう. しかし何等かの刺激があるとそれは活動記憶(Working Memory)というステー ジに上り,そこでSense(理解できることとして過去に記憶したことへの関連づ け)とMeaning(自己の生存と繁栄に役立つか)において自己判断され長期記憶 に貯えられるか,消失される.その長期記憶は後に必要に応じて再度活動記憶ス テージに取り出され,新たなSenseとMeaningを与えられ変更された形での長期記 憶となる.このプロセスの繰り返しにより,知識がそれこそ血となり肉となるわ けで,日本流に言えば「勘」が形成される.こういう教えたことが学生に記憶さ れる過程を教育考は知っておく必要がある. 記憶は均一に起らない
 上記のPETとMRIの利用によって,40分の講義の場合,最初の15分間と最後の10 分間に最も効率よく記憶されることが解っている.従って40分の講義なら最初の 15分以内に重要な事はまず教えてしまい,次の15分問はそれについての実例を示 したり,質間をしあったりすると良い.最後の10分間は終結(Closure)と言わ れるプロセスを行うと良いと言われている.上に述べた様に長期記憶に入れるに は個人の自発的なSenseとMeaningづけが必要である.終結は学生に自発的にこの 過程を行わせるのが目的で先生が要約するのとは異なる.例えば米国南北戦争の 起った歴史について勉強した場合,「3分間以内に南北戦争の重要な原因につい て三つ挙げてノートに書きなさい」と先生が提案する.3分後にその結果につい てクラスで話し合うと,先生は自分の講義が有効だったか解るし,学生にとって は自分の理解が問違っていたら訂正する機会となり,又その一連の経験によって 南北戦争の原因が記憶され易くなる.

各種教育法の有効性
 「教えることは習うことである」と言われるように習ったことを他人に教える プロセスは記憶にとって非常に有効である.今,仮にそれによって90%が記憶さ れるとする.次に有効なことはグループによる話し合いで,グループが小さい程 効率が良いが大体50%位である.続いてデモンストレーション(30%),ピデ オ・スライド(20%)と続き,最も効率の悪いのは講義で,5%が記憶されるに 過ぎない.従って多量の事柄をぎっしりと講義して試験をして済ませることは反 省しなければならない.事柄を重要な順に整理して教える過程で常に学生がどれ だけ理解しているかに留意して,より有効な教有法を工夫していかなければなら ない.
Further Reading
Alavi C. 1995."Problem-based learning in a health sciences curriculum,"
Routledge, London & N.Y.
Sousa DA. 1995. "How the brain learns," National Ass'n of Secondary
School Principals, Reston, VA U.S.A.