炭疽とは?
牧野 壯一(帯広畜産大学・獣医学科・家畜微生物学教室)
少し前まで『炭疽』という病気があることを知らない人が多かったのではないかと思います。日本ではこの10年間に牛で1例、人で4例皮膚炭疽があっただけですから、無理もありません。しかし、それ以前は日常的に発生していた時期もあります。一方、世界に目を向けると、発展途上国では炭疽の発生は依然として多く、家畜を中心に人間にも発生しています。アフリカでは、人間、家畜、野生動物を問わず日常的に発生しています。アメリカ合衆国やカナダ、ヨーロッパでも発生しています。炭疽の発生がまったくない国はほとんどありません(http://www.vetmed.lsu.edu/whocc/mp_world.htm参照)。特に畜産が重要な位置を占めるヨーロッパでは長い間この病気に苦しめられてきました。牛や羊が炭疽になると急死することが多く、1度病気の出た農場からは何年にもわたって病気が発生してしまうからです。
★人類史上最初に発見された病原細菌は炭疽菌
みなさんは、細菌(病原菌)やウィルスが伝染病の原因であることを知っていると思います。しかし、19世紀の半ばまで人々はそのことを知らず、炭疽のほかにもペスト、コレラ、腸チフスなどの病気に襲われながら、その原因についていろいろな説をたてていました。そんな中でドイツ人ロベルト・コッホ(1843〜1910)は1876年炭疽菌を発見し、炭疽病の原因は特定の細菌によるものだということを世界で初めて明らかにしました。次いで、1881年フランス人ルイ・パスツール(1822〜1895)は毒性を弱めた炭疽菌を作り、それを動物に注射することで病気と闘う抵抗力をその動物に付けること(予防ワクチン)に成功しました。近代 医学の幕開けは炭疽菌からだったといってもいいすぎではないのです。
★ 炭疽菌とは?
炭疽菌は一般的には土壌の中にいる細菌(土壌菌)で、学名をBacillus anthracisといいます。日本の土壌の中にも存在します。土壌菌の仲間には破傷風菌やボツリヌス菌の様な病原細菌や、納豆を作るのに必要な納豆菌がいます。炭疽菌の大きさは1〜3 _mで、病原細菌の中では最大です。動物の体の中では菌の表面に莢膜と呼ばれる膜を形成し、単独や短い連鎖状となりますが、試験官内で培養すると竹節状の長い連鎖となります(http://www.bact.wisc.edu/Bact330/lectureanthrax 参照)。炭疽菌の特徴は栄養分が不足すると、何層もの膜に被われた芽胞になることです。芽胞になった炭疽菌は高温や低温、pH、消毒剤、薬剤、乾燥、紫外線などに抵抗性が強く、増殖せずに長期間休眠しています。土の中にいる炭疽菌はこの芽胞の状態で、動物の体内に入る機会が訪れるまで、悪条件の環境であっても、何年も生き続けることが出来ます。
★『炭疽』はどうして起こる?
動物が炭疽菌芽胞の付着した草を食べると、芽胞は動物体内に入ります。動物の体内は栄養分があり、温度も37度位で、水分も充分にあるので、体内に入った芽胞は発芽して、血液中に入り込み、そこで増殖し動物に炭疽を起こします。炭疽を発症した動物は、体内で炭疽菌が増殖する結果、敗血症に陥って最終的には毒素により死亡します。死亡した動物の血液、体液、死体中の炭疽菌は野原に放出され、土壌や体表を汚染し、栄養分が無くなると再び芽胞体となり、また次の動物へと感染してゆきます。一度炭疽が大発生するとなかなか清浄化するのは困難になります。炭疽菌は自然界ではこのような感染サイクルを繰り返しています。
★『炭疽』はどのような病気?
炭疽はもともとは牛などの草食動物の病気で、僅かの炭疽菌でも死亡します。人間、豚、犬などは比較的抵抗力があるのですが、大量の炭疽菌が体内に入ると炭疽になります。このような感染症を“人畜共通感染症”と呼びますが、炭疽はその中でも最も急性な症状を表す細菌感染症です。炭疽に罹りやすい職業は、動物と接する機会の多い羊毛、皮、皮革、骨粉を扱う業者や屠殺解体作業員、獣医、鞣革工らで、獣疫管理が不十分な国で特に多い感染症です。人間の炭疽は感染経路から皮膚炭疽、腸炭疽、肺炭疽の3種類に分類されます。自然感染では皮膚炭疽が最も発生が多く、炭疽の95%を占めます。皮膚の傷口から炭疽菌が入り、2〜3日後に無痛性の小さな膨らみが現われ、徐々にかさぶたになり、このかさぶたが黒っぽい色をしていることが炭疽という病気の由来です。腸炭疽は炭疽で死んだ動物の肉を食べ起こり、衛生教育の悪い国で起こりますが、日本ではほとんど起こりません。適切な治療をしないと死亡することもあります。咽頭炎を起こすこともあります。肺炭疽は芽胞体を吸い込んで発症し、初期症状はインフルエンザと似ています。早期治療をしないと死亡率が高いのですが、本来人間は炭疽に対して比較的抵抗力があり、8,000〜10,000個程度の芽胞を吸い込まないと発症しません。また、自然界の芽胞体は肺の中に入るほど小さくないことも多く、自然感染ではめったにありません。つまり、肺炭疽は自然では極めてまれな病気であるといえます。もしも、肺炭疽の患者が複数例同じ地域で発生が起こった場合は、異常であるといえます。
★ 『炭疽』はどうして治すの?
炭疽菌はペニシリンを初めとする多くの抗生物質が良く効きます。しかし、なるべく早期に投与する必要があり、炭疽が発症してしまうと効果が期待出来なく、感染後24時間以内と言われています。予防はワクチンと抗生物質投与ですが、残念ながらワクチンは一般市民には使用できません。
★ 『炭疽』はどうやって防ぐの?
この1世紀あまりの間、研究者たちの知恵や努力によって医学や科学が進歩し、厳しい畜産防疫のおかげで、自然発生する炭疽を防ぐ道が開かれてきました。しかし、2001年末に起きた炭疽菌テロはその努力を一瞬にして消し去ってしまったのです。こういう形で「病気」が「武器」のようになってしまうのは非常に残念ですが、いつこのような形で発生してもおかしくない時代になってしまいました。しかし、炭疽の自然発生を未然に防ぐ手段を考える必要は、日本のような衛生水準が整っている国では必要ありません。自然発生は極めて低いからです。しかし、人為的な発生に対しては全く別です。炭疽菌はここで述べたように『生物兵器』として天然痘ウイルスとともに常に恐れられてきた病原体です。疫学調査や情報等を的確に国家的に判断し、危機管理を徹底するしか方法がありません。地球規模での対応が求められています。今世界中が協力して危機管理体制の強化に真剣に取組んでいるところです。
牧野 壯一(帯広畜産大学・獣医学科・家畜微生物学教室)
E-mail: amakino@obihiro.ac.jp
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