5月20日の衆議院農林水産委員会に日本獣医畜産大学沖谷明紘教授と私が参考人として呼ばれ、沖谷教授は牛の月齢判別について、私は表題の内容で意見を述べました。その際に配布した私の資料を掲載します。
なお、委員会の会議録は衆議院のホームページ(会議録)
で読むことができます。
「BSEのリスクとわが国における安全対策」
BSEがもたらすリスク
BSEは牛の神経疾患で、牛を確実に死亡させる重要な家畜伝染病です。
人は、BSE牛の脳や脊髄が含まれる食肉を食べたことでBSEに感染し、変異型ヤコブ病を発症しています。変異型ヤコブ病の患者は、これまでに、英国で百五十五名、フランス十一名のほか、日本を含む七カ国で一名ずつみいだされています。英国では一九九六年までに七十万頭くらいのBSE牛が食用にまわされたと推定されています。多くの人がBSEプリオンの含まれた牛肉を食べた可能性があると推測されるのですが、なぜ、患者の数がこのように少ないのか、その科学的理由はまったく分かっていません。
発病する人の数は限られているとはいっても、変異型ヤコブ病ではほかの人に血液などを介して感染を広げるリスクが問題になっています。英国では変異型ヤコブ病の人が発病する二、三年前に献血した血液を輸血されたために感染したと考えられる人が二名みつかっています。
さらに英国とフランスでは変異型ヤコブ病の人の血液から作られた血液製剤が多くの人に投与されていたことが問題になっています。
このように、BSEには家畜伝染病としての牛に対するリスク、牛から人への感染リスク、人の間での伝播リスクと三つの側面があります。しかも、牛、人のいずれでも、発病すれば百パーセント死亡します。ほかの食品中毒などとは、まったく異なる難しい問題を抱えた病気ということを、はっきり認識しなければなりません。
牛の間でのまん延防止
肉骨粉を牛に与えなければBSEは広がりません。科学的には単純な話のはずですが、BSE牛の脳を健康な牛に食べさせた実験では、わずか一ミリグラムの脳でも牛は感染しています。そのため、肉骨粉が市場に出回っているかぎり、牛の餌に混入して交差汚染を起こすおそれがあります。そこで、日本と欧州連合(EU)では肉骨粉の使用はいかなる動物に対しても完全に禁止されていて、まちがって混入する交差汚染を防ぐ対策が実施されています。
日本でのBSE対策の経緯を振り返る
牛から人への感染防止は、屠畜場での全頭検査と特定危険部位(SRM)の除去の二つで行われています。
二〇〇一年九月に日本で最初のBSE牛が見いだされ、十月十八日から屠畜場での全頭検査と全月齢の牛についてのSRM除去が開始されました。これより前、EUでは二〇〇〇年十月から十二ヵ月齢以上の牛についてSRM除去(回腸遠位部は全月齢)、二〇〇一年一月からは三十ヵ月齢以上の牛すべてについての迅速BSE検査を始めていました。そこで当初、日本でもEUと同じ条件での対策が予定されましたが、政治的決断で月齢を問わず食用にまわるすべての牛について迅速BSE検査を行うことになり、十月九日に厚生労働省は「食肉処理時のBSEスクリーニング検査の対象拡大について」という通知で、全頭検査の方針を発表したのです。
振り返ってみると、当時は牛の月齢を確認するためのトレーサビリティ・システムがなく、三十ヵ月齢以上という判断は牛の歯並びで行わなければなりません。その際に起きたかもしれない混乱は全頭検査を採用したことで回避できました。さらに、二十一ヵ月齢と二十三ヵ月齢という若い牛での感染も確認できました。このようにして、現在では全頭検査は正しい判断であったと評価できます。
ところで、わずか一ヵ月という短期間で全国の食肉衛生検査所で一斉に全頭検査が実施できたのは、一九七〇年代終わりから厚生省の難病研究班で、ヤコブ病の研究、ついでスクレイピーの研究が始められ、その研究の蓄積を土台として、一九九七年からは農林水産省と厚生労働省がそれぞれBSEについての全国的研究班を結成して研究を進めていたためです。日本でBSE発生が確認されたとき、研究面では直ちに対応できる状態であったのです。
一方、もうひとつの対策であるSRM除去は、当初は不十分なものでした。私たちプリオン専門家は脊柱の中にある背根神経節もSRMに加えるべきと、考えていました。しかし厚生労働省は、OIEの基準がBSE低発生国の場合には脊柱をSRMに加えていなかったことを参考にして、脊柱は取り上げなかったのです。OIEが低発生国についても脊柱をSRMに指定したことで、二〇〇四年二月にやっと脊柱の除去は実施されました。
屠畜・解体法にも問題がありました。この作業の際に、食肉にSRMが混入するおそれのあるのは、牛を気絶させるために行われるスタンガンによるスタンニング、続いて気絶した牛の運動反射を防ぐために脳からワイヤを差し込んで脊髄を破壊するピッシング、そして背骨を切断する背割りの三つの段階です。スタンニングについては、現在の方法よりも安全なものは出来ていませんので、その改善は今後の問題です。ピッシングはまだ七割くらいの屠畜場で続けられています。背割りの際には、その前に脊髄を吸引除去することが必要ですが、その装置を開発しなければならず、段階的に導入されて現在九割くらいの屠畜場で行われるようになりました。
全頭検査と異なり、SRM除去に関連した対策は段階的に改善されてきているのです。
農場の牛での対策にも年月がかかりました。サーベイランスのための死亡牛検査が百パーセントのレベルで行われるようになったのは二〇〇四年四月です。生産履歴を管理するための、トレーサビリティ・システムができあがったのは二〇〇三年十二月で、これが流通段階にまで広げられたのは、二〇〇四年十二月でした。この時点でBSE対策がほぼ出そろったとみなせます。
二重の安全対策の意義
安全対策の柱のひとつは、SRMの除去を確実に行うことです。屠畜・解体時にSRMが食肉に混入することも防止しなければなりません。SRM除去の実態について、厚生労働省はこれから定期的点検を行う仕組みを構築することになりました。一方、BSE牛についての科学的知見は限られており、まだみつかっていない未知のSRMも感染源となります。最近、日本の死亡牛検査では、末梢神経など、これまでSRMに指定されていない組織でも病原体が見つかっています。研究の進展にともなって、ほかの組織でも病原体が見つかる可能性があります。すなわち、食肉に混入するSRMと未知のSRMも感染源となりうるのです。全頭検査で陽性になった牛は、個体全部が焼却されますので、これらの感染源が食用にまわることはありません。
一方、全頭検査を行っても、潜伏期中の牛すべてを検出することはできません。これはBSEに限ったものではなく、どのような感染症でも同じことです。BSEの場合には、検出限界以下のために検査で陰性と判定される牛によるリスクは、SRM除去で低減しています。ただし、未知のSRMや屠畜・解体時に混入するSRMによるリスクは残ります。しかし、検出限界以下の牛の場合には、脳に蓄積している病原体の量が非常に低いため、これらがもたらすリスクは非常に低いものと推測されます。
このようにして、全頭検査とSRM除去が相補って食肉の安全を確保しているのです。すなわち、フェール・セーフ・システムということになります。
スクリーニングとサーベイランス
日本では、前に述べたように、屠畜場でのBSE検査、すなわち全頭検査は感染牛を市場に出さないためのスクリーニングとみなしています。スクリーニングとは審査・選別のことです。ところが、二〇〇二年十二月に米国でBSE牛が見いだされてから、BSE検査はスクリーニングではなく、サーベイランスのためであって、安全対策はサーベイランスとSRM除去で十分であるという見解が突然出てきました。その背景を考えてみたいと思います。
サーベイランスとは、医学用語で感染症の発生を常時監視する対策のことです。BSEでは農場での死亡牛検査がサーベイランスの中心になっており、これにより、農場でのBSE汚染の実態を「推測」することができるわけです。さらに、サーベイランスを毎年続けることによって、肉骨粉使用禁止措置の実効性を「推測」するのにも役立ちます。
米国のBSE対策は、農場ではリスク評価とサーベイランス、屠畜場では SRM除去で行われています。BSE検査はサーベイランスのために行うものとみなしています。BSE検査の目的が日本は「スクリーニング」、米国は「サーベイランス」と、まったく異なっています。もちろん、日本の屠畜場での全頭検査の成績は汚染の実態を把握するという意味で、サーベイランスにも役立っていますが、それは副産物であって、主目的ではありません。日本でのサーベイランスは農場での死亡牛検査が主体です。
日本と米国の間にはスクリーニングの必要性について根本的認識の違いがあるのです。
国際的にはどうでしょうか。一九九六年に変異型ヤコブ病が初めて見いだされた時、WHOの専門家会議では、BSEの症状を示した牛のいかなる部分・製品も人の食物チェーンに入れてはいけないという勧告を出しました。EUの科学運営委員会は一九九九年に、消費者の保護のための理想的レベルは「感染動物の排除」であって、これが合理的に保証できない場合の次善の策は「SRMの除去」と述べています。 二〇〇一年一月に、EUが三十ヵ月齢以上の牛のすべてについて迅速BSE検査を行うことを決めた際、EUの消費者健康保護委員長はEU議会で、この措置は感染牛をできるだけ市場に出さないことの確保のためと発言しています。 今年の四月に、オランダで最初の変異型ヤコブ病の患者が見つかった際に担当大臣は、屠畜場での検査で陽性の牛はすべて市場には出していないのでオランダの牛肉は安全であると言明しました。英国では三十ヶ月齢以上の牛をすべて殺処分しています。これらはすべてスクリーニングの考え方です。スクリーニングをまったく行っていないのは、スイスだけです。
一方、BSEに係わる牛由来食品の輸出入の際の国際基準はOIEの国際動物衛生規約で決められています。そして、この中で取り上げられている対策はリスク評価とサーベイランス、それに屠畜場でのSRM除去です。スクリーニングの考えはまったく入っていません。WTOの枠組みのもと、円滑な国際貿易を行う立場から、スクリーニングの考え方は取り上げられないのだと思います。
サーベイランスは最初に述べたように、汚染状況の把握と肉骨粉対策の効果を確認するためのものです。その結果、BSE牛がほとんどいなければ屠畜場での対策はSRM除去だけで十分という考えです。この考え方の根底には、集団としての家畜を相手としてきた獣医学的視点があります。しかし、変異型ヤコブ病のような悲惨な病気につながる問題の場合、人の健康保護の立場からは個人の安全を考えるべきであり、それにはスクリーニングの考え方が必要です。
日本ではこの三年半の間に、獣医学と医学の両分野の専門家が協力してBSEに係わる食の安全対策を確立してきました。その結果、世界に誇れる安全対策ができてきました。しかし、このすぐれた安全対策が、貿易のさまたげという観点から見直しを迫られているのです。
食品安全委員会での議論を振り返る
私は三年前、BSE問題に関する調査検討委員会の最後で、各委員が感想を述べた際、リスク評価に我々科学者が参加できるようになることを高く評価するとともに、科学者は責任を自覚しなければならないと発言しました。
今回、プリオン専門調査会での中間とりまとめと、月齢見直しの諮問についての審議でもって、あらためて責任の重さを感じさせられました。
中間とりまとめでは、結論の文言に私たちの意見を正確に反映させることができなかったこと、そして、その文言が月齢見直しの諮問の根拠になったことは大変残念に思っています。
月齢見直しは、米国産牛肉輸入再開を目的としたものと国民は受け止めていながら、専門調査会では、諮問の目的を尋ねた私たちの質問に対して国内対策における科学的合理性の確保という行政側の回答しか得られず、納得がいかないまま、月齢見直しの審議を行わざるを得なかったことも残念です。
一方、リスク評価の作業は私たちにとって初めての経験で、かなり苦労しましたが、その結果、客観的な定性的評価の方式ができてきたことは大きな成果であり、この面では或る程度責任を果たせたものと考えています。
最後に結論について一言付け加えたいと思います。諮問の審議の過程でSRM除去の監視や輸入配合飼料に関する問題点が明らかになり、それらの改善策が実施されることになりました。そこで私は結論に、検査月齢の線引きがもたらすリスクは非常に低いレベルの増加にとどまるという判断のほかに、一連の対策の実効性が確認された後に月齢の線引きを行うのが合理的という判断を併記するよう、提案したのですが、諮問は現在の対策のもとでのリスク評価を求めたものとみなされるため、結論ではなく、留意すべき付帯意見として「おわりに」の項に入れられました。この付帯意見について、リスク管理側がこれから、どのように留意されるのか見守りたいと思います。