昨年はパスツール没後100年にあたり世界各地で彼の業績をしのぶ集まりが開かれました。日本でも9月にパシフィコ横浜で開催された世界獣医学大会で、アルフォール獣医大学の元学長であるシャルル・ピレ教授と私が中心になってパスツール記念の特別セッションを開きました。
パスツールの73年間の業績は正にフランス科学の栄光として神話的なものとも言えます。いくつもの伝記が出版され、その中でもルネ・デユボスRene Dubosが1950年に出したLouis
Pasteurはもっとも有名です。これは竹田美文先生が翻訳されたと思います。また、パスツールが初めて狂犬病ワクチンの接種を行った後、100年目にあたる1985年にはPasteur
et Rage(パスツールと狂犬病)という本が出版されています。これはフランス獣医局長ロッセRossetが中心になってまとめた立派な本です。東北大学教授の岩崎祐三先生も狂犬病ウイルスの電子顕微鏡の項を執筆されています。パスツール研究所にあるパスツール・ミュージアムがそのまま本になった感じもする位、貴重な写真が数多くのっているすばらしいものです。
丁度、日本での野口英世のように偶像化されたものしか、私達には伝わってこなかったパスツールでしたが、科学者としての実像が昨年出版された本により明らかになってきました。それは、プリンストン大学の歴史の教授・ジェラルド・ガイソンGerald
L. Geisonが書いたThe Private Science of Louis Pasteurという本です。
全部で378頁ですが付録の部分を除くと本文は278頁です。これだけの本の紹介は不可能ですので、ほんの一部をご紹介することにします。
1。本書の背景
1978年にパスツールは家族に彼の実験ノートを誰にも見せてはいけないと厳命しました。そして1世紀の間、門外不出の状態でした。彼の孫、パスツール・バレイ・ラドPasteur
Valley-Radotはこのノートの管理だけでなく、そのほかの記録も集め1964年に国立図書館にすべてを寄付したのです。ただし、自分が死ぬまではあけてはいけないと指示した上で。彼が死亡した1985年に、これらの記録が図書館のカタログに掲載されました。パスツールのノートブックは144冊あり、そのうち42冊は実験ノートブックではなく、102冊が彼の40年間の精力的な毎日の実験記録でした。
このノートは彼が生きていた間でも、ほかの人は見ることができず、パスツール研究所の2代目所長となったエミール・ルーEmile Roux(細胞培養のルー瓶は彼の名前をとったものです。またパリのパスツール研究所の住所はドクトル・ルー通りです)は、自分の学位論文を作成するときに、パスツールの許可を得てノートを見ることができたそうです。
ジェラルド・ガイソンが本のタイトルをprivate scienceとした理由は、科学は本来、公衆のものであり、厳密にはprivate scienceは存在しないはずであるが、公表された記録と個人の記録に大きな違いがあることからと、推測されます。
パスツールの業績のうち、とくに賞賛されているものは、実験的に作られた最初のワクチンである家禽コレラワクチン、ついで公開実験で有名な炭疸ワクチン、そして最大の功績とみなされている狂犬病ワクチンの開発です。これらのワクチンが生まれるいきさつについては、伝記をはじめ、多くのテキストブックにも頻繁に書かれています。しかし、実験ノートブックから、以下のような意外な事実が明らかになってきました。
2。家禽コレラワクチン
最初のワクチンはジェンナーの種痘ワクチンですが、これは、牛痘にかかった人が2度と天然痘にかからないという経験的事実にもとづいて自然界に存在していたウイルスを用いたものでした。パスツールが1879年に開発した家禽コレラのワクチンは、実験的に作られた世界最初のワクチンになります。このワクチンが生まれたいきさつは、たまたま夏休みに気がゆるんで置き忘れていた家禽コレラ菌の培養液を、鶏に接種したところ、病気を起こさず、しかも新鮮な菌の培養液での攻撃に耐えることが分かったことによるとされています。いわゆる偶然の産物、serendipityのもっとも代表的なものとして知られています。現在、私は動物の免疫学という本の総論を書いており、免疫学のいろいろなテキストブックを見ていますが、どの本もこのエピソードを紹介しています。
ところが、これはエミル・ルーがパスツールの知らないところで、綿密な計画のもとに行った実験結果であったことが、実験ノートから分かりました。これからはテキストブックの記述を直す必要があります。
3。炭疸ワクチン
1881年、パリの郊外、ロッシニョール農場では歴史的な実験が行われました。そこには200人以上の名士、新聞記者などが集まり、世界最初の公開ワクチン実験が行われたのです。そして、パスツールの炭疸ワクチンを接種された羊は炭疸菌の攻撃に耐え、ワクチンを接種されなかった羊は死亡しました。これは驚くべき成功として報告されました。ところが、ここで用いられたワクチンの本体についてはまったく発表されませんでした。
実験ノートから明らかになったのは、ワクチン開発に重クローム酸カリ処理を用いていたことです。これは彼の弟子シャルル・シャンベルランCharles Chamberland(古い人には懐かしいシャンベルラン・フィルターは彼の名前をとったものです)とルーの研究によるものです。この事実については、パスツールの甥で、彼の実験の助手をつとめていたアドリアン・ロアールAdrien
Loirがパスツール死後間もなくエッセイの中で書いていたのですが、ルネ・デユボスの伝記でも、この事実は無視されていました。
パスツールは、この公開実験の9カ月前に家禽コレラワクチンの開発を発表しています。これは前にも述べたように、ワクチンの歴史の中でもっとも重要な成果でした。この弱毒化のメカニズムについて、彼は長期間放置した結果、大気中の酸素で菌の弱毒化が起きたと説明しています。そして、炭疸菌についても純粋の酸素の下、42ー43Cで放置して弱毒化を行って、ある程度の成果は得ていました。それなのに重クローム酸カリ処理をしたワクチンを用いた理由について、ガイソンは研究者間の競争があったと推測しています。
当時、トウッサンToussaintという人が石炭酸による炭疸の不活化ワクチンを作っており、アルフォール獣医大学で20頭の羊で実験を行った結果、ある程度の成果が得られました。しかし、彼はこれを部分的な失敗とみなし、この点について、ルーに意見を求めました。この実験のニュースを聞いてパスツールは夏休みを中断して、パリに戻りました。そして、開発の途中であった酸素の下での弱毒ワクチンの代わりに、すでに完成していたシャンベルランらの重クローム酸カリによるワクチンを用いたと推測されています。重クローム酸カリによるワクチンの開発研究はパスツールの知らないところで行われており、これを知ったパスツールは、競争相手となったトウッサンの石炭酸による方法に良く似た方法を用いていたことに驚きました。そして、最後まで重クローム酸カリのことは発表させなかったのです。
このエピソードの紹介の中で、トウッサンはワクチンの製法を書いたノートを封筒に入れて封をして、科学院に提出しています。これでプライオリテイが主張できるわけで、現在のパテントと同じ発想です。
4。狂犬病ワクチン
1831年に狼が東フランスの村で人々をおそい、8人が死亡しました。噛まれた人への手当は鍛冶屋での焼けたアイロンによる焼灼です。焼印を押すのと同じです。近くに住んでいた皮なめし業者の8才の息子はその人たちの悲鳴を聞いていました。これがパスツールです。
その約50年後、狂犬病ワクチンが完成しました。1885年6月6日、9才の農家の子供ジョセフ・マイスターJoseph Meisterが父親と一緒にパスツールの実験室に来ました。右手の中指、腿、ふくらはぎを深くかまれており、噛んだ犬は解剖の結果、狂犬病でした。その晩にパスツールは、それまで犬でのみ試験してきた狂犬病ワクチンを初めて人体に応用しました。11日間の注射にマイスターは耐え、狂犬病による死から免れました。
3カ月後の10月16日にパスツールの故郷の近くの村から、市長の手紙が届きました。そこには2日前に狂犬に木靴で立ち向かってなぐり殺し、仲間の5人の少年を救い、自分は深い傷を受けた勇敢な15才の羊飼いジャンーバプテイスト・ジュピエJean-Baptiste
Jupilleのことが書かれていました。パスツールは翌日から彼の治療を始めて、彼は助かりました。
パスツール研究所の正門の横には、ジュピエが犬を踏みつけている銅像があります。
そして10月26日に、フランス科学アカデミーで狂犬病ワクチンの完成に関する有名な論文が発表され、パスツールの名前は全世界に知れ渡ったのです。
以上は、これまでの伝記でも触れられている有名な話しです。
ところが、この前に2人に狂犬病ワクチンの接種は行われていたことが今度明らかになりました。本書ではパスツールの個人的患者private patientと名付けられています。ひとりはジラールGirardというパリの人で、犬に噛まれて病院に来ました。5月2日に、パスツールがリガルRigal医師に呼ばれて病院へ行ったところ、患者は意識ははっきりしていたが激しい頭痛、腹痛、水が飲めないといった症状を示していました。パスツールは研究所へ戻り、エミール・ルーと甥のアドリアン・ロアールを伴って病院にふたたび来た時には、インターンだけが付き添っていました。そこでワクチン接種を行ったのです。パスツールは医師の資格がないので、おそらくルーが注射を行ったと推測されています。このことが病院で問題になり、担当官庁に連絡が行き、それ以後の注射は行えなくなり、患者は運命にまかされました。
翌日5月3日には患者の容態は悪化し、けいれん発作が起きましたが、その4日後の7日には会話ができるようになり、5月22日、ワクチン接種20日後に患者は退院しました。病院の診断は狂犬病であり、わずか1
mlのワクチンが彼の命を救ったと評価されました。
その後、1月たたない6月22日に、第2の患者、11才の少女ジュリー・アントワーヌ・プーゴンJulie-Antoine Poughonが上唇を飼い犬に噛まれて入院してきました。パスツールの示唆にしたがって医師がワクチン接種を行いましたが、患者は翌日の夜に死亡しました。
これらの治療は動物実験の基礎がない状態で行われています。すなわち発症した犬で、まだ成功していない方法が人体に応用されたのです。しかし、当時すでに、治療実験と非倫理的人体実験の区別は明確であって、恩恵を与えることを期待して行われた治療実験は受け入れられていました。したがって、これらの治療は非倫理的ではないとみなされました。
パスツールがマイスターやジュピエに行ったワクチン接種は、最初、長期間乾燥させて弱毒化が進んだウサギの脊髄乳剤から始められ、徐々に短期間乾燥のものに変え、最後は新鮮なもの(強毒)が接種されました。パスツールはこの頃、生物学的理論から化学理論に転向しており、生きたウイルスは可溶性の化学的ワクチン物質を産生していて、これが免疫を与えると考えていました。その考えにしたがって、それまでの犬の実験では新鮮なワクチンから始めて長期間乾燥ワクチンの順番でした。ところが5月28日(ジラールが退院した直後)に急に方針を転換して、弱毒ワクチンから始める方法が犬の実験で採用されました。これは最初にワクチン接種が行われたジラールの場合、長期間乾燥したものが用いられて、これが1回注射で患者を救ったという事実がきっかけになったと考えられます。ジラールの診断がもしも間違っていたとしたら、パスツールはきわめて幸運に恵まれていたと著者は述べています。マイスターにワクチン接種が行われたのは、この犬の実験が進行中の時だったのです。
なお、「霊長類フォーラム」に関連ある事実として、狂犬病ウイルスのウサギ順化が試みられる前、パスツールはサルでの継代順化を試みていたことをつけ加えておきます。しかし、成績が不安定で実験が困難立ったために、ウサギに切り替えられたのです。
5。おわりに
以上、ワクチンに関する研究の経緯での意外な事実をピックアップしてきました。しかし、これは決してパスツールの批判ではなく、科学者の思考のプロセスと研究の進展の実体を正確に理解するためのものです。あまりにも神話につつまれたこれまでのパスツールとは違って、もっと身近な科学者としての面が分かってきたように思います。科学者の伝記として非常に興味深い本です。時間の制約もあり、本書の前半の結晶解析やワイン発酵、蚕の病気の研究のところはまだ読んでいません。いずれ、翻訳が出ることを期待しています。
Kazuya Yamanouchi (山内一也) |