霊長類フォーラム 人獣共通感染症 第69回 11/3/98
英国の日曜新聞Night & Dayの7月12日号にPlague wars疫病戦争というタブロイド版4頁におよぶ大きな記事が不気味な写真とともに掲載されました。著者はトム・マンゴールドTom Mangoldとジェフ・ゴールドバーグJeff Goldbergで、彼らの著書Plague warsの内容にもとずいたものです。この本は来年に出版されるそうです。この本の内容はBBCでテレビ映画にまとめられ2回にわたって放映され、かなりの反響を呼びました。1月ほど前にこのビデオテープを入手しましたが、その内容は現実の話だけに大変迫力があります。全部で2時間くらいの長いものですので、私の印象に残った部分について、ご紹介します。
第1部はソ連の生物兵器研究に関するものです。最初にまず、マールブルグウイルスの実験室感染での死亡事故の話に始まります。シベリアのノボシビルスクにあるベクター生物学研究所Vector Biological Research Instituteが舞台です。この研究所でのマールブルグウイルスやエボラウイルスの動物実験のことは本講座題55回でご紹介してあります。
1988年4月13日に44才のニコライ・ウスチノフNikolai Ustinovが若い助手セルゲイ・クロトフSergei Krotovとモルモットへのマールブルグ感染実験を行っていた時のことです。ニコライがモルモットを押さえ、セルゲイがウイルスの入った注射器をモルモットに刺そうとした時にモルモットがあばれ、注射針がニコライのゴム手袋を貫いて指に刺さってしまいました。彼はただちに研究所内の隔離病室に入れられました。私はフォートデトリックの米陸軍微生物病研究所の隔離病室は見学したことがありますが、それと同様のものだそうです。
4日後にニコライの眼に出血が起こり赤くなりました。症状は進行し4月30日に死亡しました。彼は日記に死ぬまで臨床経過を記しています。危篤状態になった時に彼の妻エブジェニアYevgeniaは防護ガラス越しに電話で話すことだけが許されました。ほとんど昏睡状態だったそうです。彼女も同じ研究所の小児科病棟で働いており、現在も続けています。死後の解剖では、肝臓と脾臓が取り出され、さらに脚の静脈から採血が行われました。そこから、分離されたマールブルグウイルスはU株(ウスチノフの頭文字)と命名され、これが生物兵器の出発材料になったというストーリーです。
この話には大変驚きました。マールブルグウイルスではナイジェリアの病院で医師が患者から感染したことがあり、そこから有名なムソキ株(医師の名前)が分離されています。これはホットゾーンの冒頭のストーリーになった事件です。しかしマールブルグウイルスによる実験中の感染はこれまでありませんでした。エボラウイルスでは英国ポートンダウンの陸軍微生物研究所でモルモット接種実験の際に起きたことがあります。この経緯は私の著書「エマージングウイルスの世紀」に詳しく述べてあります。
マールブルグウイルスの実験室感染がソ連で10年前に起きていたことは、この新聞の記事を読むまで知りませんでした。BBC映画ではエブジェニアが子供たちとニコライの墓にお参りをして、ウオッカを墓石に掛け、皆で彼をしのんで少し飲む場面が最初に出てきます。その後、当時を振り返った彼女の談話もあります。大変ショックな話でした。
マールブルグウイルス実験感染のエピソードの後、映画では生物兵器の歴史として1942年に英国で行われたヒツジへの炭疸菌による野外実験の映像、炭疸の患者のすさまじい顔、ペスト、天然痘などによる生物兵器の研究の経緯が物語られています。
ソ連に話を戻しますと、本講座第63回でご紹介しましたが、ソ連の生物兵器研究
計画の副部長アリベクAlibekが米国に1992年に亡命しています。彼が映画の各場面に出てきて、ソ連がいかに米国や英国にうそをついていたかを生々しく証言しています。米国では1960年代終わりに攻撃用生物兵器の研究を中止し防御用のみに限られることになりました。英国も同様です。なお、防御用とはワクチン、免疫血清、診断法の開発を指します。1980年代には攻撃的生物兵器の研究中止が国際的に協定され、ソ連も調印しました。1991年には攻撃用生物兵器研究が行われていないことをお互いに確認するために、米英とソ連が交互に生物兵器研究施設の査察を行いました。ソ連の米国査察にはアリベクも参加しており、アーカンソーの施設を見てまわっていた映像が出てきます。アリベクの談話では結局、攻撃的兵器研究の証拠は見つからなかったが、ソ連政府への報告では米国は攻撃的兵器研究を継続していると述べたそうです。これは、ソ連の攻撃的生物兵器研究続行の口実を政府首脳に与えるためのものでした。
英国調査団がセントペテルスブルグの施設を調査した映像も出てきます。この調査団の案内を担当したのもアリベクでした。彼の談話では、攻撃用生物兵器にかかわる器具などはすべて隠して英国調査団をあざむいたとのことです。ゴルバチョフ、エリツインの時代と、現在までロシアで生物兵器研究が続いていることは間違いないと彼は語っています。
一方、生物兵器の脅威について、ウイスコンシンのアマチュアがインターネットで強力な毒素の製造マニュアルを公開した話が映画で紹介されています。彼の台所で手回しの小さな遠心装置で強力な毒素が分離されている場面があらわれ、そこでのインタビューでは、彼のマニュアルにより犠牲者が出たらどうするかという質問に対して自分の責任ではないという答えが紹介されています。彼によれば炭疸菌は10日、ペスト菌は15ー20日、コレラ菌は8ー10日、チフス菌は8ー10日で作れ、武器にするには炭疸菌ではさらに10日あれば十分とのことです。また、仮にロンドンで15マイル四方に炭疸菌を散布すれば800万ないし1000万人が被害を受けるという推定です。
第2部は実際に生物兵器が用いられた事実の紹介です。舞台は1970年代終わりの南アフリカ独立運動時代です。南ローデシアでは1979年に原因不明の炭疸の発生があり、1万人が発病し82名が死亡しました。これはその地方の家畜に存在していた菌ではなく、英国ポートンダウンの陸軍微生物研究所で保管していた菌でした。これを当時の南ローデシアの生物兵器プロジェクトチームが現地人の独立戦争に対して用いたものと推定されています。炭疸菌の芽胞は死滅しません。20年後の現在でも、この地域で象、サイ、キリンなどが死亡しています。50年後でもなくならないし、また除去する方法もありません。
生物兵器プロジェクトチームのメンバーが代わる代わる画面に出てきて、当時行われた活動や研究を証言しています。黒人居住区の水道源にコレラ菌が投入されたこと、黒人を不妊にさせるワクチンの研究がチンパンジーで行われていたことなど、さまざまな活動が紹介されています。失敗はしたがタバコに炭疸菌を入れようとしたこともあったそうです。これらの活動や研究は戦争の状態では倫理的であったと担当者は映画の中で語っています。
独立運動の指導者で、後に初代大統領になったネルソン・マンデラは最大の標的でした。薬にタリウムが混入され脳機能がおかしくなったこともあるそうです。この汚い戦争は1994年に終わりましたが、生物兵器プロジェクトチームのリーダーは今も行方不明で捜索中です。リビアなど他の国に南アフリカの生物兵器専門家が逃れて情報提供を行っている可能性も推測されています。
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