霊長類フォーラム:人獣共通感染症(第93回)3/4/00
生物兵器としてのプリオン:新刊書「悪魔の作業場」と「ターゲット」
フィクションの世界の話です。生物兵器としてプリオンを利用するアイデアがタイ トルの2つの本で取り上げられています。プリオン病はかって伝達性痴呆とも呼ばれたように痴呆の症状を呈し、確実に死に至る病気です。現実には不可能ですが、究極の生物兵器にもなりかねません。そういった点がフィクションの世界では魅力的なのでしょう
。
今回ご紹介する2冊の本のうち、ひとつではプリオン病が特定の遺伝形質の人で起こりやすいという特徴にもとづ いて、特定の人種のみ抹殺する目的の生物兵器に利用したものです。もうひとつは、何十年にもわたって相手の国に大きな被害を与えることを目的とした生物兵器の物語です。
「悪魔の作業場」(The Devil's Workshop) William Morrow & Co. Inc.
スティーヴン・カネルStephen J. Cannellの最近作です。私はよく知りませんが、ベストセラー作家のようです。
プロローグは湾岸戦争の英雄クリス・カニンガムが自分の娘を失い嘆き悲しむという場面です。全身性の血管腫という非常に珍しい病気ですが、湾岸戦争の際にイラク軍が使用した化学兵器が原因でした。しかも、この化学兵器は米陸軍が開発し、イラン・イラク戦争の時にイラクに提供したものが逆に使用されたものでした。
話はまず、南カリフォルニア大学の微生物学博士課程のステーシー・リチャードソ ンの学位論文審査の最中に彼女の夫が自殺したという知らせが届くところから始まります。彼女の夫は、微生物学講座の主任ですが、サバティカル休暇でフォートデトリックの生物兵器研究所に移って研究を始めたところでした。場所は悪魔の作業場として知られる最高機密の生物兵器の研究室で、ここではジェームス・ゾル将軍のもと、分子生物学者デキスター・デミルが中心
になってプリオンの研究を行っています。デミルはカールトン・ガイジュセックと一緒にニューギニアでクールーの研究に従事し、ガイジュセックとともにノーベル賞を受賞したということになっています。ガイジュセックはご存じのとおりクールーの伝達性を発見して現在のプリオン病(彼は非通常ウイルスと呼んでいましたが)の基礎を作った人です。その功績でノーベル賞をもらいましたが、これは単独受賞です。彼はまた、フォートデトリックのキャンパス内に国立衛生研究所NIHが設立したフレデリック癌研究センターに研究室を持っていました。私は1981年に、
その研究室に大阪大微生物病研究所の川俣順一先生をお連れしたことがあります。ガイジュセックという実在の人物で、しかも実際にその研究室はフォートデトリックの一部にあったわけですから、きわめて現実的なストーリー設定です。ガイジュセックがどのようにこの小説を受け止めたのか知りたいところです。
ところで、ステーシーはただちにフォートデトリックに飛び、夫は自殺ではなく殺されていたことを知ります。そして証拠はすべて、コンピュータのデータにいたるまで抹殺されていました。しかし、自宅へ戻ってみると危険を察知した夫から実験のファイルのコピーがメールで送られていました。ここで真相の一端を知ったわけです。
舞台は変わって、テキサスのヴァニッシング・レイク(失われゆく湖)というところにある刑務所です。ここにまったく身よりのないことが確かめられたふたりの囚人が送られてきて、悪魔の作業場で開発された兵器の人体実験が始まります。プリオンはウシ海綿状脳症(狂牛病)やクロイツフェルト・ヤコブ病の病原体であって、潜伏期は数年
と長いのが特徴です。それを短くするためにEBウイルスと混ぜ合わせてあります。
そして、このキメラウイルスの運び屋として蚊を使って囚人に感染させたのです。 ひとりは数時間で死亡しますが 、もうひとりには何も起きません。ある特定の人種にだけ病気を起こすようにプリオンがデザインされていたのです
。蚊をすべて殺虫剤で退治して実験は成功裏に終わったように見えました。ところがまもなく、近くの町で気が狂って死亡する人が出始めました。実験を行った部屋のダクトの一部が老朽化のために、孔があいていて蚊がそこから逃げたのです。ゾル将軍はフォートデトリックから空軍を派遣して周辺すべてを焼き払って逃げた蚊が繁殖しないよう
、大規模作戦を行いました。
たまたま、この時にふたりの浮浪者がこの町に来ていました。彼らは米国内を貨車で渡り歩くホームレスです。そのうちのひとり、ハリウッド・マイクという名前の男が発病して死亡しました。彼の父親はハリウッドの有名なプロジューサーです。もうひとりのホームレスは、プロローグに登場したクリス・カニンガムでした。娘の死亡を嘆きアル中になって家を離れていたのです。
マイクが死亡したことを知ったゾル将軍たちは死体が解剖されるとプリオンが原因であることが分かるため、その隠蔽工作として解剖室から遺体を奪うという手段に出ました。徹底的に隠蔽しようとしたわけです。
さらにゾル将軍はデミルにすべての罪をおしつけ、彼を殺害しようとしました。ところが、デミルはオウム真理教のようなホームレスの狂信者グループにさらわれてしまいました。彼らはこの生物兵器で黒人とユダヤ人の絶滅をはかろうと計画したのです。ヴァニッシング・レイクにはステーシーも来ていました。
彼女は殺された夫のファイルから刑務所での実験の計画を知ったのです。一方、クリスは自分の娘の死亡原因になった化学兵器を開発したのがデミルであったことを知ります。デミルに夫を殺されたステーシー、娘を殺されたクリスが協力して、デミルと狂信者グループの追跡を始めます。これにマイクの父親の大プロジューサーも加わります。
それから後は、スリルに富んだドラマが展開されますが、これ以上ご紹介することは止めておきます。いずれ和訳 が出るでしょうから。なお、この本の書評はネイチャーメディシンに出ており、これはまさにバイオスリラーだと語られています。
「ターゲット」楡周平(宝島社)
米軍の北朝鮮に対する重要な作戦計画として、北朝鮮が南進する気配を見せた際に在日米軍が先制攻撃をしかけるという綿密な計画があります。この米軍の行動を阻止するために生物兵器で攻撃して戦闘能力を失わせるために北朝鮮の工作員が新型生物兵器を持って日本に侵入します。日本政府にはこのような非常事態に対応しうる能力はないと
して、アメリカのCIAが日本政府にも知らせず秘密裏の活動で、この生物兵器の使用 を未然にくい止めるというのが本書の大筋です。ハードボイルドの著者のストーリーを紹介するのは私にはできませんし、また、この講座の趣旨でもありません。北朝鮮が用いようとした最先端の新型生物兵器にしぼってご紹介しよ
うと思います。
この兵器の実態が米軍により明らかにされたのは、日本海に面した能登で漁網にひっかかった三人のダイバーの死体が見つかったのがきっかけです。レジャーダイバーとは異なる奇妙な身なりで、さ
らに防水加工したプラスチック ボックスを持っておりその中に白い粉末の入ったガラスのアンプルが7本入っていま した。たまたま、アメリカのCI Aは北朝鮮の秘密工作員が日本に新しい生物兵器を持って侵入したという情報を得ていました。そこで、このアンプル内のものが生物兵器に間違いないと考えたのです。7本は日本に存在する米軍基地の数に一致し、それぞれの基地で散布する計画だったと推定されました。そうだとすると空気感染を起こすきわめて危険な生物兵器の検査は日本ではできません。もしもアンプルをあけたら感染が広がってしまいます。米国大統領から
日本の首相に直接電話で緊急の要請があり、アンプルは米国陸軍感染症研究所USAMRIIDに秘密裏に運ばれました。
アンプルの中身は予想通り生物兵器で、インフルエンザウイルスにボツリヌス毒素の遺伝子を入れたものでした。 ボツリヌス毒素の毒性はきわめて高く、200グラムあれば全人類の致死量に相当するといわれているそうです。これをインフルエンザウイルスをベクターとして空気感染させるものです。アンプル内
の粉末が喉に入って粘膜で増殖を始めると、最初は風邪、ついでボツリヌス毒素で運動神経が麻痺され、最終的には呼吸麻痺で死亡することになり ます。
ところがこの生物兵器にはさらにもうひとつの遺伝子が含まれていました。それはプリオン遺伝子です。プリオン病も起こす兵器だったのです。プリオン蛋白はご承知のように正常の蛋白で、それが構造変化をして病原性プリオン蛋白になります。したがってプリオン遺伝子を挿入しても病原性プリオン蛋白にはなりません。現在のプリオンの常識では無理な話です。しかし、そこはフィクションの世界です。この生物兵器がプリオン病を起こしうるという根拠に、京都大学でプリオンにウイルス核酸の一部を見つけたというニュースが取り上げ
られています。
このような兵器は北朝鮮の科学者だけでなく、旧ソ連から流出した科学者が協力したものと推測されています。イ ンフルエンザとボツリヌス毒素だけならワクチンで防ぐことがいずれは可能になりますが、プリオンに対してはワクチンは不可能です。しかも何年もの潜伏期で発病し、場合によっては国中に痴呆症の人間が蔓延することにもなりかねないという威力があります。著者の表現を借りると「これはまさに核以上にやっかいな兵器だ。一度ばらまかれたら最後、今後何十年という長期にわたって国家、いや国民もとてつもない負の遺産を抱えていかざることを意味する
。そうした点から言えば、この生物兵器は地雷」ということになります。
最初の計画が失敗し、ふたたび北朝鮮から工作員が今度は無事に日本に侵入します。ここからはハードボイルドの世界です。
Kazuya Yamanouchi (山内一也) |