リフトバレー熱(Rift Valley fever)

森田 千春 (酪農学園大学)

 リフトバレー熱は日本ではあまり知られている病気ではありません。英名のValleyが大文字であることにご注意ください。これはこのバレーが一般名詞として「谷」を指しているのではなく、固有名詞だからです。この谷は東アフリカを南北に貫き、これに沿ってタンガニーカ湖(写真)など多くの湖があることで知られています。ここでアフリカ大陸が東と西に引き裂かれているとのことです。

 名前の通り、主として東アフリカに分布する古くから知られていて病気で、既に1930年代にはウイルスが分離されていました。リフトバレー熱ウイルスはブニヤウイルス科という科に属し、この科は5の属に分類され、このうち4つの属のウイルスは蚊、サシチョウバエ、ダニにより伝播されます。リフトバレー熱ウイルスはこの中のサシチョウバエを意味するプレボ属に属しますが蚊により伝播されます。

 この病気はおよそ10−15年に一度各地で小流行を繰り返すことが知られています。何回かの大流行が知られています。最も大規模なものは1977−78年のエジプトの流行です。それまでこの病気はサハラ以南の国々で知られ、エジプトでは知られていませんでした。この流行では18,000人が感染し、598人が死亡しました。ウイルスのエジプトへの持ち込みは何によるか必ずしも明らかではありませんが、一説にはスーダンから持ち込まれた感染ラクダが原因と考えられています。しかし、ラクダはこのウイルスに抵抗性が強く、伝播に十分な量のウイルス血症を起こさないのでやはり羊ではないかという説もあります。

 この大流行の背景にはアスワンダムの建設があります。このダムの建設により多くの灌漑施設が建造され、蚊の発生場所が多くなったことがあるとされております。1998年のそれまで流行の記録のない西アフリカのセネガルとモーリタニアにおける流行もその背景にはやはりセネガル河に建設されたダムの影響があるとされています。同じ年にはケニヤとソマリアにまたがる流行がありました。これはこの年にエル・ニーニョが発生し、この地方に大雨が続いたことによると考えられます。2002年、今年も既にエル・ニーニョの発生が観測されており、アフリカの降雨が心配されます。リフト・バレー熱はエジプトの流行ではアラビア半島に拡がるのではないかと心配されましたが拡がらず、今までアフリカ大陸のみに発生する病気と考えられてきました。2000年に突然、アラビア半島の、サウデ・アラビア、イエーメンで発生し流行しました。この流行の背景に何があったのかは明らかではありません。ウイルスの侵入はソマリアなどからの感染家畜の持ち込みに依るのではないかと言われます。

 感染した動物で最も被害の大きいのは羊です。妊娠している羊は100%流産が起こります。仔羊に感染すると90%以上、成羊で20−60%致死率と言われる。牛での致死率は10−30%ですが妊娠牛もほぼ100%流産します。リフトバレーの流行は「流産嵐、Abortion Storm」と言われます。

 人は無論蚊に刺されることにより感染するほか、感染した動物を取り扱うことにより感染する。特に流産胎児が危険と言われます。著者は南部アフリカで牛と豚が別々の食肉処理場で処理されているところの授業員についてリフトバレー熱の抗体調査をしたとき、牛の処理場にのみ抗体保有者が見付かりました。人の潜伏期は2−5日で突然の発熱、激しい頭痛、筋肉痛、関節痛が起こる。一般には2−7日で回復します。少数の例では出血熱、脳炎などが起こります。出血熱は約1%の症例に発病急性期に発生します。出血熱を発生したときの致死率は50%にも成ります。脳炎は症例の1%以下に認められます。最も頻度の高い合併症は網膜炎であり、1%以上に起こる。診断は主として血清抗体により行われ、酵素抗体免疫アッセイ法、蛍光抗体間接法により、IgM抗体を検出することにより行われます。ウイルスの分離は乳のみマウスの脳内接種法、あるいは細胞接種法により行われます。細胞としてはミドリザル由来のVero細胞、ハムスター由来の BHK細胞が用いられますが、何れにしても人への感染の危険がありP-3レベルの研究室が必要です。このウイルスの核酸はRNAなのでDNAに置き換えて遺伝子増幅法により検出する方法(RT-PCR)が用いられます。この方法は分離されウイルスがリフトバレー熱かどうか決定するためにも有用です。予防は蚊の駆除等が重要です。ワクチンは動物用、人間用に不活化ワクチン、生ワクチンが実用化されています。

我が国への侵入の危険は少ないと思われます。しかし、世界的な規模での発生状況の掌握に勤める必要があります。また、発生地への旅行者の数は益々増加するでしょう。この為には国内での診断体制の整備が急務です。

 

タンガニーカ湖南西部 Nkamba bay (Zambia) より 1987年著者撮影