ニューヨークの同時多発テロをきっかけに生物化学兵器テロへの関心が高まっています。さらに今度はフロリダでの炭疽菌感染が問題になっています。これらは主に人への健康被害を及ぼす兵器ですが、もうひとつ問題になるものに農業テロがあります。これは人の健康ではなく社会・経済に大きな影響を与えるものです。
最近の英国での口蹄疫発生で多数の家畜が殺処分になり経済から政治にまで大きな影響を与えたことは、まだ記憶に新しいことです。
米国の反対で宙に浮いている生物兵器に関する京都議定書の原案にも、今回口蹄疫ウイルスが加えられたと伝えられています。これは生物兵器に関する概念が拡大してきたことを示しています。
農業テロについては、私の友人でもあるコリー・ブラウンCorrie Brownが編集した「Emerging Diseases of Animals」ASM Pressの第3章に総説があります。その内容を主体に簡単にまとめてみます。
1.農業テロの歴史
20世紀の初期に用いられた生物兵器は、実は人ではなく家畜を対象としたものでした。とくにこれを用いたのはドイツです。ドイツは、米国メリーランド州、バージニア州、ニューヨーク州(1915-1916)、ルーマニア(1915-16)、スペイン(1915-18)、ノルウェー(1916年)、アルゼンチン(1916-17)、フランス(1917)などで炭疽菌や鼻疽菌を、ウマ、ウシ、ヒツジ、トナカイ(ノルウェー)などを標的として用いたと報告されています。成果のほどは不明ですが、米国、ルーマニア、アルゼンチンでは成功した可能性があると推測されています。
第2次大戦では、日本軍が口蹄疫と肩を並べるウシの急性伝染病である牛疫ウイルスを乾燥粉末にして、風船爆弾でアメリカ本土に飛ばす計画を進めていました。これは実現にはいたりませんでした。
しかし、日本軍が牛疫を生物兵器に用いる情報は米軍に漏れて、米国とカナダが合同でセントローレンス河の中のグロッセ島(Grosse Island)に牛疫研究所を作り、ワクチン開発の研究を行いました。この成果は、戦争中は軍事秘密でしたが、戦後になってアメリカ獣医学雑誌1冊すべてを使って詳細に報告されました。それまで、このウイルスの研究では私が現在所属する日本生物科学研究所の創立者の一人、中村惇治先生が世界的にトップでしたが、その成績を上回る科学的に立派な内容のものでした。私は以前からこの島を訪ねたいと願っているのですが、まだ果たしていません。2年ほど前にセントローレンス河で船に乗った時にも、この島のことが気になりましたが、少し離れていたために確認できませんでした。
ところで、第2次大戦後の冷戦時代には、米陸軍は家畜とニワトリのウイルスを生物兵器に用いた実験を行っています。1951年にはブタコレラウイルスをシチメンチョウの羽に混ぜた爆弾を空軍基地に設けた実験豚舎に投下しています。ニワトリではニューカッスル病ウイルスで同様の爆弾投下実験を行っています。
1969年にニクソン大統領は攻撃用生物兵器の開発を中止し、防御用兵器の研究のみとするという決定を行いました。しかし、キューバはそれ以前の1964-1967年に12回にわたって、米国が人、動物、植物のウイルスを意図的に散布して、キューバの経済混乱を招こうとしたと非難したことがあります。
湾岸戦争では、イラクは炭疽菌をはじめ多くの病原体を生物兵器に用いようとしたと言われていますが、その中には口蹄疫ウイルスも含まれていたとのことです。
2.生物兵器に利用されるウイルス
家畜とニワトリに対する生物兵器の条件として以下の8項目があります。(1)伝染性が強いこと。(2)環境での生存性が良いこと。(3)発症率、死亡率など臨床的特徴が予測できること。(3)家畜やニワトリに強い病原性を示すこと。(4)容易に作れること。(5)自然発症に責任転嫁することで攻撃を否定できること。(6)犯行を行う人に有害でないこと。(7)容易に広がること。
これらの条件が満たされる病原体として22種類があげられています。そのうち、上位のものに、口蹄疫ウイルス、ブタコレラウイルス、アフリカブタコレラウイルス、牛疫ウイルスがあります。これらはすべて生物兵器議定書の作業部会で検討されています。
3.米国での模擬演習
米国農務省の動植物健康監視局(Animal and Plant Health Inspection Service: APHIS)の危機管理計画には、動物病緊急排除地域組織(Regional Emergency Animal Disease Eradication Organization: READEO。正しい和訳は知りません)が協力することになっています。READEOでは38人のチームがすぐに召集されて活動することになっており、1998年11月6日には演習が行われました。テログループがカリフォルニア州、ミネソタ州、フロリダ州の3カ所の家畜の競り市などに意図的に口蹄疫に類似のウイルスを散布したという想定でした。
4.法的枠組み
米国では、ウイルス・血清・毒素法という法律により家畜に害を与えるウイルス、血清、毒素を輸入することは禁止されています。しかし、それらを持つことは法的に禁止されていません。この面での改善の必要性が指摘されています。
病原体を用いる実験はすべて国立衛生研究所(NIH)と疾病予防制圧センター(CDC)が合同で作成した指針にしたがうことが義務づけられています。遺伝子組換え実験はすべてNIHの指針にしたがうことになっています。
5.日本の現状
日本ではこれまで島国ということで、家畜ウイルスの清浄化が進められています。口蹄疫は2年前に局地的に発生しましたが、幸い迅速に制圧され清浄国に戻れました。また、ブタコレラでは清浄化計画が進められ、昨年からすべてのブタへのワクチン接種が中止されました。しかし、見方を変えれば、テロの攻撃対象になりやすくなったといえます。
病原体についての法的枠組みは皆無です。感染症法、家畜伝染病予防法のいずれも病気を対象としていて病原体を対象としたものではありません。もっとも家畜伝染病予防法では病原体の輸入は規制の対象になっています。
病原体の安全度分類という、病原体取り扱いの基礎になるものは、1970年代半ばに私たちが国立予防衛生研究所で自主規制のために作成したものが基礎となって、国内すべての組織で自主規制の指針にもとづいています。
米国では、病原体の管理は前述のようにNIH/CDCガイドラインを基礎として行われていますが、日本では自主規制というわけです。
新しいタイプの生物兵器では遺伝子工学の利用も問題になっています。日本でも組換えDNA実験指針は国として作成していますが、実はこれは病原体の指針を基礎として作るべきものでした。もっとも、私たちはその点を四半世紀にわたって指摘してきていますが、自主的指針という基盤の上に国の指針があるという、おかしな形がいまだに続いています。
これからテロ対策が日本でも問題になってくることが予想されますが、その基盤になる病原体の取り扱いに関する国の枠組みはできていないのです。