上記の本を三瀬勝利先生(元・国立医薬品食品衛生研究所副所長)と共同執筆で出版しました。NHK出版の了解を得ましたので、「まえがき」、「目次」、「あとがき」の部分をご紹介いたします。
「まえがき」
二十世紀は微生物学のめざましい進展の時代であった。十九世紀終わりまでに炭疽菌を初めとする細菌の分離ラッシュの時代が始まり、最初のウイルスとして口蹄疫ウイルスも発見された。それまで人類を悩ませてきた主な急性感染症は、その原因である病原微生物が分離され、抗生物質やワクチンの開発により制圧されていった。微生物学が人類に貢献した光の部分となったのである。
一方、微生物学が生まれる以前のはるか昔から、伝染病がもたらす被害を武器、すなわち生物兵器として用いる試みが行われてきていた。微生物学の進展は、生物兵器の開発につながり、国家予算による大規模な研究が行われた。微生物学の影の部分が姿を現してきたといえる。
第二次世界大戦後の冷戦の時代には、アメリカと旧ソ連を中心として生物兵器の開発研究が加速された。アメリカでの生物兵器研究は、一方で実験室感染から作業者を防御するバイオハザード対策の確立という副産物を産み出した。旧ソ連では数千人から数万人もの科学者が生物兵器研究にかかわったと推測されているが、その副産物は生物兵器技術の世界的拡散である。ソ連の崩壊とともに、かなりの数の科学者が国外に流出しテロ支援国家で生物兵器研究を続けていると言われている。
生物兵器の開発研究に膨大な国家予算があてがわれたにもかかわらず、生物兵器は実戦に使用されたことはない。その理由としては、長い潜伏期のために効果がすぐに分からないこと、爆弾のように目に見えるドラスティックな効果が見られないことなどがあげられている。しかし、これらの問題点はテロリストには通用しない。むしろ、密やかに徐々に効果を示すことにより不安を増大させることが利点ともみなされる。しかも、生物兵器は「貧者の核兵器」と呼ばれるように、わずかの金額で少数の人間によって作ることができる。ソ連崩壊による冷戦構造の消失で起きてきた数多くの民族間の抗争では、生物兵器によるバイオテロは格好の手段になりうる。
アメリカがバイオテロの脅威を真剣に認識し始めたきっかけは、オウム真理教によるサリン事件の際に、炭疽菌とボツリヌス毒素の散布まで行っていた事実が明らかになったことである。それまでは「起こるかもしれない」と考えられていたことが、「いつ起こるか」に変わった。アメリカではバイオテロ対策に膨大な予算がつぎこまれ、予行演習も何回か行われた。しかし、2001年10月に起きた炭疽菌事件は、それまでに予想されていたシナリオをはるかに越えた事態になった。
これまでにバイオテロに関しては、すぐれた解説書が何冊か欧米で発行されている。それらはサイエンスライターの筆によるものであって、微生物学専門家が執筆した一般向けの書物はほとんど見あたらない。本書はウイルス学と細菌学の専門家が、半世紀近い経験をもとに、微生物学の影の部分であるバイオテロの実態を解説した点が特徴的といえる。
微生物学専門家の視点から眺めると、いたずらに危険性を強調するつもりは毛頭ないが、バイオテロの潜在的危険性ははかりしれないものがある。現在、高い関心が持たれている天然痘ウイルスや炭疽菌は、いわば古典的生物兵器である。一方、遺伝子組み換え技術が産み出す病原微生物は、近代兵器としてこれから新たな脅威になることが予想される。1993年、米国議会技術評価局は遺伝子組み換え技術の生物兵器への利用の可能性について警告を行ったが、10年後の現状を見ると、その予測をはるかに越えた研究成果が得られてきている。病原 微生物学領域は、研究の推進と、バイオテロ対策のための病原体の利用規制の必要性という難しい問題を抱えるようになってきている。
バイオテロは人の健康被害を目的としたものだけではない。家畜や農作物を標的とした経済的被害を目的とする農業テロ、いわゆるアグロテロもある。2002年秋、米国科学アカデミーはアグロテロに関する総合的報告書の中から、事例検討の部分の公開を中止した。あまりにも現実的であって、テロリストに悪用されるのを防ぐためと言われている。
日本では、バイオテロの危険性を世界に発信した国でありながら、バイオテロについては、あまり関心は持たれていない。テロリストに国境はなく、しかもグローバリゼーションの時代、バイオテロの危険性は日本も例外ではない。本書がバイオテロの実態を広く認識するのに役立つことを期待したい。
執筆は、はじめに、第二章(天然痘ウイルス)、第三章(ウイルス兵器、遺伝子改変兵器-遺伝子工学が産み出すスーパーウイルス、アグロテロ兵器)、第四章(微生物感染の成立と伝播の仕組み)、第五章(バイオセーフティ)を山内が、プロローグと第一章から第五章までの山内分担部分以外を三瀬が、それぞれ分担した。
「目次」
はじめに
プロローグ 炭疽菌テロ発生
第一章 生物兵器とバイオテロの歴史
1. 日本における生物兵器とバイオテロの歴史
2. 世界における生物兵器とバイオテロの歴史
第二章 炭疽菌と天然痘ウイルス:生物兵器の双璧
1. 炭疽菌
2. 天然痘ウイルス
第三章 さまざまな生物兵器
1. 生物兵器の分類と特性
2. 細菌兵器
3. リケッチア・クラミディア兵器
4. ウイルス兵器
(1) 出血熱ウイルス
(2) ハンタウイルス
(3) 西ナイルウイルス
5. 毒素兵器
6. 遺伝子改変生物兵器
7. 農業をねらったテロ:アグロテロ
第四章 生物兵器の特徴とバイオテロ
1. 生物兵器の利点と特徴:化学兵器や核兵器との比較
2. 生物兵器の使用方法
3. 感染と発症のメカニズム
第五章 バイオテロにどう立ち向かうか
1. テロが実行されたときどうするか
2. 生物兵器で攻撃された患者の治療法
3. 感染の予防
4. 生物兵器研究の副産物:バイオハザード対策
5. 生物兵器禁止に関する国際条約
6. 日本におけるバイオテロ対策の問題点
あとがき
「あとがき」
本書が生まれるきっかけは、2001年10月にアメリカで起きた炭疽菌事件である。数少ない病原細菌学の専門家である三瀬のもとには炭疽菌について、また、病原ウイルス学の専門家である山内のもとには天然痘ウイルスについてマスコミなどからの問い合わせが多く寄せられた。そのような状況下で、NHK出版の池上晴之編集長から、筆者たちにバイオテロに関する解説書の共同執筆が依頼されたのである。
長年にわたって、筆者たちは厚生省中央薬事審議会や農林水産省農林水産技術会議の委員会で、遺伝子組み換えにより作り出された組み換え医薬品、組み換え植物、遺伝子導入動物などの安全性の審査に関わってきていた。さらに、山内はバイオハザード対策に関する調査のために、1970年代半ばに二回にわたって設立後間もないアメリカ陸軍微生物病研究所を訪問していた。三瀬は2000年に、同じ研究所を生物兵器対策の調査目的で訪問していた。バイオハザード対策、生物兵器開発は表裏一体のものであり、バイオテロはそれらの延長線上につながる。そこで、2002年春から執筆を開始した。
筆者たちはこれまで、感染症制圧という公衆衛生の側面から病原微生物の研究にたずさわってきており、病原微生物をバイオテロの視点から本格的に眺めてみたのは初めてであった。執筆を進めるうちに、バイオテロの手段としての病原微生物の秘める潜在的危険性が予想以上にあまりにも高いのに驚かされた。想定される病原微生物のテロへの応用方法を列記してみると、テロリストの手引きに悪用されるおそれも感じられた。そこで、具体的バイオテロ手段はさけて、潜在的危険性を提示し、それにどのように立ち向かうかという立場から述べることにした。
炭疽菌テロに見られるように、バイオテロはどのような形で起こるかまったく分からない。たまたま、本書の執筆中には国連によるイラクの生物化学兵器開発に関する査察が始まった。ロンドンでは猛毒のリシンが見つかり、バイオテロの脅威が現実性をおびてきた。バイオテロに関する国際情勢は今後どのような動きを示すのであろうか。(後略)