公益社団法人日本獣医学会 The Japanese Society of Veterinary Science

人獣共通感染症 連続講座 第144回(05/2/2003)


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ベトナムでのSARS制圧の背景

 4月28日、WHOはベトナムではSARS発生が最大潜伏期10日間の2倍の20日間見られなかったことから、SARSが制圧されたとして、ベトナムをSARS汚染地域のリストからはずしました。これにもっとも貢献したのがイタリア人のカルロ・ウルバーニ(Carlo Urbani)医師で、SARSの命名者ともみなされている人であることは、私の知るかぎりあまり報道されていないようです。

 ウルバーニはSARSの重大性を最初に認識してWHOに警告を発し、しかも自身SARSに感染して死亡しました。ProMEDには彼の死をいたむ追悼文が掲載されています。その内容や、彼についてのWHOのコメントなどを参考にして、彼の経歴やベトナムでのSARS対策への貢献をまとめてみたいと思います。

 ウルバーニは2000年からベトナムのハノイでWHO感染症専門家としてラオス、カンボジア、ベトナムの感染症対策に従事していました。2003年2月26日、ハノイ市内のベトナム・フランス病院にひとりの中国系アメリカ人ビジネスマンが肺炎の疑いで入院しましたが、症状が普通の肺炎とは異なることから、ウルバーニのもとに相談が持ち込まれました。入院の2日後、彼は患者を診察したところ、その症状が重く、危険な病気であると判断しました。そこで、病院の医療スタッフに患者の隔離、高性能のマスクの着用、作業衣の2枚重ね着といった防護対策を勧告しました。これらはベトナムではほとんど行われていない対策でした。
 3月9日、彼は保健省の担当官に面会し、患者の隔離と旅行者の検疫の必要性を説明しました。これらはベトナムの経済やイメージに悪影響を与えるものであったにもかかわらず、直ちに実施されました。ちょうど、その頃、ホンコンでトリインフルエンザウイルスによるヒトの感染の可能性が問題になっていたため、WHOは異常な呼吸器疾患が見つかった際には報告を求めていました。しかし、ウルバーニはこれがトリインフルエンザウイルス感染によるものではなく、新しい病気であると判断しました。彼は直ちにWHO本部に、この病気のことを報告したのです。(その際に重症急性呼吸器症候群と呼んだのかどうかは分かりませんが、彼が命名者と伝えられています。)3月12日、WHOは全世界に新型肺炎に関する最初の警告を発し、3月15日のプレス・レリーズで初めて「重症急性呼吸器症候群SARS」の名称を用いています。
 一方、ウルバーニは3月11日、会議の座長を務めるために、タイのバンコクに飛びました。しかし、到着した時、すでに発熱していたため、すぐに隔離病棟に入院させられました。連日、患者を診察しサンプルを集めているうちに感染したのです。3月29日、彼はそこで死亡しました。46歳でした。

 彼はイタリアのアドリア海に面したアンコーナの医科大学を卒業し、主に寄生虫対策に従事してきました。国境なき医師団のイタリア支部長もつとめ、1999年に国境なき医師団がノーベル平和賞を受賞した際には、代表として受賞式に参列したそうです。
 ベトナムでは最後の患者発生から3週間の間、患者の発生はなく、4月28日、WHOはベトナムをSARS汚染地域から除外したのです。63名の患者が見出され、そのうち5名の死者が出たにもかかわらず、ベトナムは世界で最初にSARSの制圧に成功した国になりました。
 患者をすばやく発見し、その行動と接触者を調べ上げたこと、患者の病院隔離が効果的に行われたこと、患者を治療する医療従事者に対する防護が適切に行われたこと、SARSが疑われた人たちを徹底的に洗い出し隔離を行ったこと、タイムリーで正確な情報提供が関係者や政府の間で行われたことなどが、SARSの封じ込めに成功した要因とされています。もちろん、最大の貢献はウルバーニ医師に帰せられています。
 CDCは彼のサンプルから新型コロナウイルスを分離し、その全遺伝子構造も解明しました。ウイルスの分離・同定、遺伝子構造の一部解明の学術論文は4月10日にニューイングランド医学雑誌のオンライン版に掲載され、そこで彼を追悼してウルバーニSARS関連ウイルス(Urbani SARS-associated virus)の名称が提唱されました。しかし、人名がウイルスの名称に用いることは国際ウイルス命名委員会で認められていないためか、一般には、SARSコロナウイルス、ウルバーニ株と呼ばれています。