人獣共通感染症 連続講座 第84回
フランス・リヨンに新設されたP4実験室
霊長類フォーラム:人獣共通感染症(第84回)9/30/99
フランス・リヨンに新設されたP4実験室
9月23日からフランスのリヨンで世界獣医学会議が開かれました。これは4年に
一度開かれる獣医学領域での最大の会議で、前回は1995年にパシフィコ横浜で開
かれました。この会議の前日にリヨンに新たに建設されたP4実験室を国立感染研の小
船富美夫、東大獣医微生物の甲斐知恵子の両先生と訪問しました。
この実験室の建設計画はフランスINSERM(Institut National Scientifique Reche
rche Medecin国立医学研究所)のフェビアン・ワイルドFabian Wildが中心になって
始められたものです。フェビアンは英国人ですがフランスが好きなようで、20年以
上、INSERMで麻疹、ジステンパーなどのモービリウイルスの研究を行っています。私
たち3人とはモービリウイルスの研究を通じての長い付き合いがあります。私の場合
は1984年に彼の研究所でセミナーを行った時からの友人です。小船先生はWHOの
麻疹根絶計画の麻疹ワクチン開発委員会で一緒に仕事をしたことがあります。甲斐先
生は文部省の学術調査官としての出張でINSERMを視察した際にフェビアンに世話にな
ったことがあります。それはたまたまP4実験室の建設計画の始まった時でした。
そこでフェビアンに見学の手配を依頼した結果、所長のスーザン・フィッシャーホ
ックSuzan Fisher-Hochを紹介してもらい、メールでスケジュール調整をして会議の
前日に訪問することになったわけです。彼女はCDCの特殊病原部いわゆるホットゾー
ンで8年間出血熱ウイルスの研究を行ってきました。有名な仕事としては、エボラウ
イルスのザイール株、スーダン株、レストン株のサルへの感染実験を行って、それぞ
れのウイルスの病原性の程度を比較した論文があります。また、特殊病原部長のジョ
ー・マコーミックの奥さんで、ふたりが著者となったVirus Huntersという本を書い
ています。Huntersと複数なのは夫婦のことを指しているからです。
あいにくフィッシャーホックは留守でしたが、Chef de laboratoire(実験室主任
)の肩書きのジャック・グランジュJacques Grange教授が案内してくれました。短時
間プログラムと長時間プログラムのどちらが希望かと言われたので後者を頼んだとこ
ろ、午前中いっぱい、くわしい説明を交えながら、実験室区域(内部は外の廊下から
だけですが大きな透明ガラスなのでよく見えます)、空調施設、、排水処理施設まで
くまなく案内していただきました。この訪問の際のメモを参考にしながら、この新し
いP4実験室をご紹介をしようと思います。きわめてフランス語的な英語の説明であっ
たため、理解不足の面もあるかと思います。その点をあらかじめお断りしておきま
す。
- 建設の経緯
これまでにフェビアン・ワイルドとCDCのウイルス・リケッチア病部門長のブライ
アン・マーヒーから聞いていた話を総合すると、フェビアンがP4実験室の必要性をメ
リユー財団の理事長シャルル・メリューCharles MerieuxにP4実験室の重要性を訴え
、資金提供を依頼したのが建設計画の発端です。シャルル・メリューの祖父マルセル
・メリューはパスツールと一緒に研究にたずさわった人です。そして彼の息子のジャ
ン・メリューはパスツール研究所で学び、後にフランスでのポリオ根絶に貢献した人
ですが、1994年にTWAの航空機事故で死亡しました。
ジャン・メリューの遺産の寄付を受けたメリュー財団がP4実験室の建設資金を提供
して昨年12月に実験室は完成しました。正式名称はジャン・メリューの名前をとっ
て、Laboratoire Haute Securite P4 Jean Merieux(ジャン・メリューP4高度安全実
験室)です。なお、スーザン・フィッシャーホックからのメールではタクシーの運転
手にle P quatro (英語のP4)と言えば通じるという話です。
グランジュ教授はケミカル・エンジニアリングを学んだ後に、INSERMで学位(微生
物学?)をとり27年間ポックスウイルスなどの研究にたずさわったとのことです。
微生物学からエンジニアリングまで理解していて、実験室の運転・設備のメンテナン
スなど管理面の責任者のようです。一方のフィッシャー・ホックは使用する研究者の
立場です。ついでですが、電気設備の一部はグランジュ教授の息子さんが担当したと
いって、その内容も説明してくれました。電気制御システムのことで、私にはよく理
解できませんでしたが。
- P4実験室の立地条件と構造・設備
P4実験室はリヨンの街の中心から車で10分くらいのところにあります。昔、屠畜
場のあった広い敷地に10年あまり前にINSERM、獣医大学、パスツールメリューのワ
クチン製造所などが集まった、いわばリサーチパークといったところです。そこのマ
ルセル・メリュー研究所の屋上にP4実験室は建設されました。敷地は広いのですが多
くの建物が建っていて余裕がなく、さらにINSERMなど協力機関に近い場所といった場
所にしなければならなかったために、INSERMとつながっているマルセル・メリュー研
究所の上が選ばれたわけです。
実験室は1階が排水処理施設、2階が隔離実験室区域、3階が給排気処理施設の3
階建てです。これがなんと、地下7メートルまで埋められた大きな柱3本で支えられ
て、既存の建物の上に設置されています。ほかの国では考えられない方式です。建物
の周囲は透明なガラスでおおわれ、外から内部がすけて見える開放的な雰囲気です。
しかも、もっとも目立つガラス壁の部分にはP4 Jean Merieuxのネオンサインが付け
られています。P4実験室を取り囲む窓のすぐ下は激しい交通量の道路で、四方の窓か
らのリヨンの街の眺めは展望台からの感じがします。とてもP4施設に居るという気は
しません。
建物の壁はポリウレタンを吹き付けた厚さ12センチメートルの鉄製で、シリコン
で接着されています。実験室全体をとりまいているガラスは3.5 cmの防弾ガラスです
。グランジュ教授は潜水艦に近いものになっていると自慢していました。
実験室区域への入り口には、建物の内部の配置と作業の内容を模式的に示した大き
な図があります。メリユー研究所は牛のもっとも危険な感染症である口蹄疫のワクチ
ンを古くから製造しており、私は10数年前にその工場を訪問したことがありますが
、そこで見た隔離状態での口蹄疫ワクチン製造の図を思い出しました。この隔離施設
の経験が生かされているものと思います。
実験室は2つのユニットからできています。平面図にスケールが入っていないので
正式の広さは分かりませんが、感じではCDCのものとほぼ同じように思われます。四
方を緩衝帯としての廊下がとりまいており、ここは非隔離区域で、大きなガラス窓を
通して内部がよく見えるようになっています。実験室の中からも外の景色が見えるは
ずです。基本的には現在のCDCのP4施設と同じですが、使用開始前で内部がきれいな
ためもあってか、CDCのものよりもすっきりした感じです。
これまでいろいろな人から聞いていた話とは異なり、最新のテクノロジーが応用さ
れている面がいくつもあります。私はこれまでにCDCの古いP4実験室(現在は多剤耐
性結核菌研究用)、現在のP4実験室、フォートデトリックの生物兵器研究施設、米陸
軍微生物病研究所USAMRIID、国立癌研究所、英国の生物兵器研究施設(ポートンダウ
ンにあります)など、南アフリカのP4施設以外の主なP4施設はすべて訪問しています
が、このリヨンの施設はたしかにユニークです。最新のテクノロジーが応用されてお
り、グランジュ教授が自慢するように21世紀の施設といえるかもしれません。
特徴的なところは、フランスの原子力産業の技術が積極的にとりいれられている点
です。まずプラスチックスーツですが、CDCなどで使用しているものは5キログラム
もあり、作業者には重労働になっていますが、ここのスーツは改良されて2キログラ
ムです。工業技術面のことでよく理解できませんでしたが、いろいろな配管の電気溶
接はウラン精製の際の方式だそうです。配管が壁を貫通する箇所のシールは建物の機
密性を保つために重要ですが、これにも原子力施設の方式が使用されています。排水
処理などの配管からのリークは電気伝導度の検査装置が付けられており、リークが生
じる前に検出できるようになっています。これは原子力施設で使用されているものだ
そうです。排気用ダクトの継ぎ目の部分には柔軟性を確保するためにパラシュートの
素材が用いられています。余談ですが、グランジュ教授は英語の語彙が多くなく言葉
を選ぶのに苦労しており、パラシュートの英語も大分考えていましたが、パラシュー
トはフランス語から生まれた英語だったようです。
- 消毒・除染処理
スーツ方式のP4実験室では作業者がスーツの中に封じこめられて、感染防止がはか
られます。スーツの外側には病原体が付着する可能性があるため、作業終了後にまず
、スーツの外側を薬液シャワーで完全に消毒することがもっとも重要です。さもない
と実験者がスーツを脱いだ際に感染するおそれがあります。消毒薬としてこれまで、
CDC, USAMRIIDなどではいずれもフェノールを用いてきています。レベル4に分類さ
れているのはエンベロープを持ったウイルスだけで、すべてフェノールで容易に不活
化されます。しかし、フェノールには発癌物質である塩酸オルトフェノールが生じる
危険性があります。そこで、この新しいP4実験室では、氷酢酸、次亜塩素酸ソーダな
どを含めて15の消毒剤を試験した結果、最後に残ったものがSanytexという薬剤で
した。これはRochexが販売しているもので病院や実験室の床の清掃などに用いられて
いるものだそうです。成分は4塩化アンモニウム、アルデヒド、パインオイルの混合
物ということでした。パインオイルには抗カビ作用もあるそうです。この薬剤をヒト
免疫不全ウイルス、アデノウイルス、ポックスウイルス、バチルス、カビなどで試験
して消毒効果を確認した上で採用したとということでした。匂いもよく、市販のもの
があるのも好都合ということです。ただし皮膚に付くと傷害を与えます。
これまでのP4実験室では薬液シャワーは頭上から浴びる方式です。ここのは両側の
12個のノズルから薬剤がエアポンプで放出されます。4分間、この薬液シャワーを
浴びたのち、2分間普通の水のシャワーでゆすいでからスーツを脱いではだかになり
、普通のシャワーを浴びることになります。
普通、P4実験室では入室の時はシャワーを浴びる必要はありません。出る時に汚染
を除去するためにシャワーを浴びます。ここも同様と思っていましたら、後で述べる
火星からのサンプルについての作業では入室の際にも浴びることになると言っていま
した。地球上の微生物で火星サンプルを汚染してはいけないということでしょうか。
排水は128度の高圧蒸気滅菌で処理されます。そのために1階に2つの高圧蒸気
滅菌タンクが備え付けられています。容量は1立方メートルで、スチームジャケット
が取り囲む方式です。これはほかのP4施設のものより大分小型です。私の記憶では感
染研のP4実験室は5立方メートルだったと思います。滅菌処理する排水の80%は消
毒用シャワーの水です。
- 今後の利用計画
この実験室の建設費は4000万フラン(約8億円)で、すべてメリュー財団が支
出しました。完成後はINSERMのヨーロッパ・ウイルス・免疫センターに移管する予定
でしたが、まだ調整作業中で、移管は実現していません。現在はメリュー財団が維持
費もすべて負担しています。
施設の使用開始に向けての安全確認に関して、リヨンとパリの両方の行政からの許
可を現在待っているところです。これが済めば実験が開始されることになります。現
在具体的に検討されている実験にはラッサ熱ワクチンがあります。これはカナリアポ
ックスウイルスをベクターとして、それにラッサウイルスの糖蛋白遺伝子を組み込ん
だ、いわゆるベクターワクチンです。ワクチンの各種の性状はレベル2で実験できま
すので、P4実験室ではサルにワクチンを接種した後、ラッサウイルスで攻撃して免疫
力を確認する実験が行われるのだろうと思います。研究費はパスツールメリューとEC
の両方から提供されるそうです。
サルの飼育ケージとしては1ラック、4ケージ1組のものが4台ありますから、最
大16頭のサルでの実験が可能です。観察用の赤外線カメラは天井に設置されていま
す。
そのほかに多剤耐性結核菌、多剤耐性チフス菌などへの使用も考慮中だそうです。
これらはレベル3でも可能ですが、リヨンでは最近、ルーマニアから来た人の中で4
例の多剤耐性の結核患者が見つかっており、この分野でも協力しなければならないだ
ろうとのことです。
一方、フェビアン・ワイルドはモービリウイルス専門家の立場から、マレーシアで
130人の人の死亡と100万頭の豚の殺処分を引き起こしたニパウイルスの研究を
行いたいと話していました。
非常に意欲的に計画しているものに火星サンプルの試験があります。ここのP4実験
室には2つのユニットがありますが、そのひとつを2008年にヨーロッパのロケッ
トが火星から採取してくるサンプルの研究に利用する計画が進められています。地球
上に存在しない微生物を持ち込むおそれがあるかもしれないという考えからです。実
は、このような計画は1960年代にアポロが月から持ち帰ったサンプルについて実
施されたことがあります。その際の月サンプル研究室Lunar Receiving Laboratoryの
概念図や経緯は私の著書「エマージングウイルスの世紀」で紹介しています。宇宙か
らの微生物という発想にもとずいたマイケル・クライトンの「アンドロメダ病原体」
という推理小説は、このNASA計画がヒントになったものです。アンドロメダの話がま
た復活するわけです。なお、NASAでも月サンプル研究室は老朽化したため独自に新た
に火星サンプル用の実験室建設計画を進めていて、リヨンのP4実験室の視察にもきた
そうです。
訪問を終えて
見学を終えた後、フェビアン・ワイルドのオフィスを訪問しました。彼によれば資
金を提供したシャルル・メリューがこの建設に際して付けた条件はただひとつ、自分
が生きている間に完成させるということだったそうです。フェビアンには100%こ
の計画に従事してほしいと要求したそうですが、フェビアンはINSERMという国立研究
所の職員であり、自分のウイルスの研究も忙しく、とてもそれだけの時間はさけない
ということから、CDCにかって所属していたスーザン・フィッシャーホックにバトン
タッチしたということです。
建設計画の最初にはCDCの専門家を呼んで、2カ月間検討を行った後、全部で5カ
月で建設計画がまとまりました。シャルル・メリューの要求はとにかく、時間を急ぐ
ことで予算は問題外であったとのことです。そして、昨年12月の開所式にシャルル
・メリューは出席できました。彼は現在、92才です。4年前の横浜での世界獣医学
会議ではフランスのアルフォール獣医大学の元学長のシャルル・ピレ教授と私とが企
画したパスツール記念シンポジウムに出席されましたが、大変お元気でした。しかし
、現在は重態とのことです。
アメリカのP4実験室とは非常に異なって開放的でかつ、フランスの独自性を強調した施設には大変強い印象を受けました。また、設立のいきさつにはパスツールの意思が現代にも脈々と続いていることが感じられました。
Kazuya Yamanouchi (山内一也)
連続講座:人獣共通感染症へ